茨城方言は、過去の文学作品に描かれています。ここでは、それらについて紹介します。
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◆長塚節の作品
1.小説『土』
小説の中で描かれた茨城弁の代表はなんといっても、長塚節(1879−1915 )が33歳の時発刊した『土』(1912:大正元年)です。日本の農民文学の頂点をなす作品の一つになっています。
長塚節は当時の結城郡石下町国生(現在の地名は町村合併によって不明)生まれです。茨城県西部にあたります。『土』の中で描かれている農民の悲惨さを思うと彼の出を邪推してしまうのですが、実は豪農の生まれで、満四歳で尋常小学校に入学したようにとても頭の良い子だったと記録されています。その後現在の水戸一校へ主席で進級しましたが四年(17歳)の時脳神経衰弱とされて退学してしまいました。その後の療養生活の中で正岡子規が主催する『子規』に入門したことがきっかけになってついに文壇に入ったのでした。しかし、彼が描いた農民の貧しさには、現代人がついに失った田舎や自然の環境がアンチテーゼのようにこぼれる宝石のように描かれています。『土』は一度映画化されましたが、焼失してしまい、短縮版が残されているだけと言う。もしこの物語が再度映画化されたら、誰もが農民の生活を素晴らしく思うのではないかと思ってしまいます。
2.『土』に描かれた茨城弁
『土』に描かれた茨城弁は読者を意識してか世間に解りやすい下町言葉を意識した様子が伺えます。しかし、茨城弁の特徴は余さず表現されており、あのような時代によくあそこまで訛を使った小説を書いたものだと思います。しかしそれでも果たして当時どれだけの読者が内容を理解できたでしょうか。興味のある方は、青空文庫『土』をご覧下さい。旧仮名遣いなので、本家茨城人でも若い方々は苦痛を感じるかもしれませんが、一読する価値はあります。「」部分だけを読んで見る方法もありますが、前語関係が解らないと理解するのが難しい個所も多くあります。青空文庫は著作権が切れた小説等を有志の方々によってデジタルデータ化しているサイトです。良い時代になったものだと思います。以下はその中の一節で主人公の勘次が幼い次男の与吉に注意を促す場面です。原文は何故か促音便が表現されていないので解りやすく是正したのと同時に仮名使いを現代仮名遣いに替えてあります。当サイトの茨城弁が語られた時代と比較してもむしろ洗練された言い回しで全く違和感を感じさせまん。微妙な茨城弁特有のリズムによる語順がごく自然に描かれています。明治維新は確かに日本にとっては革命に近い出来事でした。また、2回に渡る世界大戦は、政治と経済に大きな影響を与えました。しかし庶民の生活や文化・風習に影響を与えるものではなかったのは幸いでした。長塚節の小説を眺めるたびにそう思います。読者を意識して明治期の茨城弁が多少歪曲化されているとしても、『土』という小説に残されていることは、茨城県民が今大きな遺産として感謝しなければならないと思います。
ちなみに京都橘女子大学の宮島達夫先生が発表された『日本語の<危機> 』という論文の一部に次のようなくだりがあります。『『土』の執筆は1910年であり,現代方言というより,すでに方言史の資料に近くなっているのである。では,これは方言の記録としてどの程度正確なのか。わたしが学生だった1950年代には,節(1879-1915)の生前をしっている同年輩の人がまだ健在だった。『土』に出てくる,ある方言について,地元で「昔はこんな言い方をしましたか」とたずねたところ,節の友人だった人が,しばらく考えたあとで「昔どうだったか,よくおぼえていないが,節さんがそう書いているのなら,若いころはそう言っていたのでしょう」とこたえた。自分の記憶よりも『土』の記述を信用するというほど,この作品の茨城方言は忠実に記録されているのである。』
手元にある角川文庫の版では、足音便が表現されていいます。注釈の多さも作者の苦労が伺われます。
えんとして居ろ、動(いご)くんじゃねえぞ、動(いご)くとぽかあんと堀の中さ落(おっ)こちっかんな、そうら蛙(けえる)ぽかあんと落(おつ)こった。動(いご)くなあ、此處(ここ)に棒あった、そうら此(これ)でも持ってろ、泣くんじゃねえぞ、姉(ねえ)は此の田ん中に居んだかんな、泣くとおとっつあにあっぷって怒られっかんな:お座りしていなさい。動くんじゃないよ。動くとぽとりと堀の中に落ちちゃうからね、ほら、カエルもぽとりと落ちたわ。動かないで。ここに棒があった。ほら、これでも持ってなさい。泣くんじゃないよ。お姉さんはこの田んぼの中に居るんだからね。泣くとお父さんにあっぷって怒られるからね。
青空文庫版は促音便が表現されていませんが、今では書店でもなかなか手に入りませんから貴重です。
髭(ひげ)のかう生(は)えた部長(ぶちやう)さんだつていふ可怖(おつかね)え人(ひと)でがしたがね、盜(ぬす)まつたなんて屆(とゞ)けしてゝさうして警察(けいさつ)へ餘計(よけい)な手間(てま)掛(か)けて不埓(ふらち)な奴(やつ)だなんて呶鳴(どな)らつた時(とき)にやどうすべかと思(おも)つて、そんぢや其(そ)の書付(かきつけ)持(も)つて歸(けえ)りますべつて云(い)ふべかと思(おも)ひあんしたつけ、さうしたら暫(しばら)く書付(かきつけ)見(み)てたつけが此(これ)は誰(た)れが書(か)いたつて聞(き)くから、わし等(ら)方(はう)の旦那(だんな)でがすつて云(ゆ)つたら、さうかそんぢやよし/\歸(けえ)れなんていふもんだからほつと息(いき)つきあんした、瘧(おこり)落(お)ちたやうでさあはあ、そんだからわし等(ら)なんぼにもあゝい處(ところ)へは出(で)んな厭(や)で。
3.『土』に描かれた茨城弁の意図
『土』に描かれた茨城弁の印象はきっと物語の内容と切っても切れない関係にあると思います。主人公の勘次の茨城弁はイメージ通りです。勘次の女房で自らの堕胎が原因で破傷風にかかり死んでしまう(おつう)の最後は涙を誘います。さらに勘次と(おつう)のなれそめが今で言えば『出来ちゃった結婚』であったことも当時としては極めて斬新だったと思います。おまけに勘次は、おつうの父親の宇平とうまがあいません。そのようなことは今も昔も良くあることなので大きな話題にはなりません。しかし、貧しい生活の中で描かれた子供への思いは、苦しいとか苦しくないとかに関わらずああたりまえなことなのですが、貧しい農村生活の中でますます浮き彫りにされていきます。いよいよ幼い『与吉』への思いは、爺の宇平の心の動きにも描かれます。
そしてその中で思春期を迎えた(おつぎ)のこころの移ろいの描き方は当時の文壇にあっては白眉に近いものだったでしょう。うら若い女の子が、自分が住んでいる世界を越えて、辛い経験と否応なしの行動をしなければならなかった環境、そして、赤いたすきすら締められないおつぎへの同情心をますます誘います。
長塚節が敢えて方言を剥き出しにした理由がそこにあると思います。漱石は、『土』の巻頭文でこうも書いています。
『余の娘が年頃になつて、音樂會がどうだの、帝國座がどうだのと云ひ募る時分になつたら、余は是非此「土」を讀ましたいと思つて居る。娘は屹度厭だといふに違ない。より多くの興味を感ずる戀愛小説と取り換へて呉れといふに違ない。けれども余は其時娘に向つて、面白いから讀めといふのではない。苦しいから讀めといふのだと告げたいと思つて居る。參考の爲だから、世間を知る爲だから、知つて己れの人格の上に暗い恐ろしい影を反射させる爲だから我慢して讀めと忠告したいと思つて居る。何も考へずに暖かく生長した若い女(男でも同じである)の起す菩提心や宗教心は、皆此暗い影の奧から射(さ)して來るのだと余は固く信じて居るからである。』と。
4. 明治末期の結城郡茨城弁と当時の茨城弁
長塚節が『土』他に残した茨城弁(1912)は宝のようなものです。そこで、当茨城弁集(1960〜1970)と比較してみました。驚いたことに殆ど差異を感じませんでした。約50年強の時代差に加えて、長塚節は結城郡生まれですから、地域的な僅かな差異は必ずあるはずなのですが、その差異はわずかなものでした。ただし、僅かに解読不能個所もあったのも事実です。恐らく誤植が主な原因ではないかと思っています。
一方当茨城弁集と現代は40年の差があります。この40年間の方が劇的な変化が認められます。
1)現代茨城弁との相違点
『土』の茨城弁は、今のつくば市と県西部の猿島郡の間の地域です。そのため一概に比較はできませんが、土浦の上大津地区の40年前の方言と比較して、@『い』を『え』と発音する傾向が高い、A連母音変形する傾向がさらに多いこと、B撥音便の傾向がより高いこと、C昭和中期になるとあまり使われなくなった男性の一人称『わし』が全盛だったこと、D『〜ぺ』より『〜べ』の使用頻度が高いことが解ったほか、以下は、明治末期と昭和35〜45年頃の土浦上大津地区の方言、現代標準語の比較です。
気をつけて読むと会話文中以外にも時々茨城弁があることがあります。おそらくうっかり書いてしまったのでしょうが、そんなこともこの小説を読む楽しみの一つになるでしょう。
・〜あんす/〜やんす:〜ます
・かたで/からきし・からっきり・からっきし/からきし・からっきり・からっきし
・〜がな/〜がんな/〜からな
・〜くろえ:〜(して)下さい
・〜ごっさら/〜ごったら・〜ごったが:〜ことだろう、〜ことやら
・〜せ/−/〜です・〜さ
・〜ぞ/〜ど/〜ぞ
・〜だ(終止形+)/−/関東圏に古くからある訛り(おれがやるだ等)
・〜ぢゃ/〜だ/〜じゃ:結城という地域性の方が大きいように思われる
・どうした/どーでー:どうだい
・なんだえ/なんでー/なんだい:この言い回しはむしろ古い千葉訛に良く残っているようである。
・〜な/〜なー/〜のは:結城という地域性の方が大きいように思われる
・〜なえ/〜ない/〜なよ:この『え』は『よ』の上代方言。
・ねえ/ねえちゃん/姉さん
・〜ねえのがんだ/〜ねえがんだ/〜無いものだ:『〜無いのが、そうなったからだ』:〜無いのがそうだ(から):無いことの理由の断定と推測されます。何故このような回りくどい言い方が明治後半に使われたかは解っていません。今後の課題です。
・〜のがだから/〜んだがら/〜のだから(〜ものだから):前後関係を考えると『のが』とは『訳・理由』ではないかと考えるのですが、そんな言葉は辞書には見出せませんでした。ここで『のが』とは古語の流れを受け継いで『だ』に続く助詞という仮説をたてると、理解できます。しかし、そうなった歴史的地域的流れはまだよく解っていません。さらに良く考えてみると、『が』には『〜のもの』の意味があります。そう考えると、現代の『〜したものですから』という言い回しがあります。恐らくその辺りが落ちどころなのでしょう。『土』★一遍(いつぺん)は途中(とちゅう)で帰(けえ)って見なくっちゃ成らねえのがだから同じ事だよ:一回は途中で帰って見なければいけないものだから同じことだよ
・〜のせえ/〜んさ/〜のさ
・はかた/ぱっかだ/かちかちに硬い様
・びやびや/ぴやぴや/ひやひや
・わりゃあ/わりゃあ・おめは/あなたは、お前は
2)会話文中独特の言い回し
現代語の語法と微妙に異なる言い回しを『土』の中から集めました。口語なので微妙な心の動きを表現したもの等があります。
・そんなに惡(わる)くなくっちゃそれでもよかった、俺(お)らどうしたかと思(おも)ってな:微妙な心の動きを表現。『なくっちゃ』と『それで』の間に心の動きがある。
・何處(どこ)が痛(いた)いんだ、少(すこ)しさすらせて見(み)っか:痛みで臥しているおしなに向かって勘次が言った言葉。本来は、『少しさすって見っか』。これは勘次の気持ちがおしなの側にあるため、それを表現したものだろう。現代でも『私にやらせて見る?』などと言ったりする。
・本當(ほんたう)だ他人(ひと)のやらねえこってもありやしめえし:お品が無くなった時集まって来た近所の女房達の一人が発した言葉。そのまま訳すと『本当だ。他人の遣らない事でもありはしまいし。』となる。謎の言葉である。
・おつぎみんなでも嘗(な)めさせろ、さうして汝(われ)も嘗(な)めっちめえ、おとっつあ稼(かせ)えで來(き)たから汝等(わっら)も此(こ)れからよかんべえ。現代語からすると『でも』の使い方が不自然に見える。本来は『にでも』。『でも』は物事を限定せず、曖昧に指すのに用いる系助詞。しかし、この場合の『でも』は、もう一つの意味の物事の一部分を仮に取り上げて、他の部分をも暗示する意味とすれば理解できる。つまり、この場合の『みんな』とは、家族以外の人を含めた人達の中の一部の『みんな』=家族の意味になる。現代でも『お前でもそんなことやるの?』と言う。ただしそれでも現代語の感覚からすると主格と対象格が逆転しているのは否めない。こんなところにも微妙な表現を駆使した長塚節の天才性が伺える。
・おつうとそれ、返辭(へんじ)するもんだ:おつうと(呼んでるよ)、ほら、返事をするもんだ。そのまま読みすごすとニュアンスを間違ってしまう。本来なら『おつうと、それ、』と表現すべきところである。
・あれ俺(お)ら知(し)つてら:茨城方言は平坦に発音されながらしばしば格助詞が省かれ、さらに文節が曖昧で連続して話すことがあるので解りにくいと言われる原因となっている。解りやすく表現すれば『あれあ、俺(お)ら知(し)つてら』である。
・そんぢや細(こま)かく刻(きざ)んだらどうしたんべ。現代なら『どーだんべ・どーだっぺ』である。
・こんで穗(ほ)の出際(でぎは)に雨(あめ)でもえゝ鹽梅(あんべえ)なら、反(たん)で四俵(へう)なんざどうしてもとれべと思(おも)つてんのよ。この場合の『どうしても』の表現が独特だが、辞書によれば『いやでも応でも。かならず。』の意味がある。
5.長塚節のその他の作品
同じ長塚節の短編『土浦の川口』にも茨城弁は健在です。その他『芋掘り』、『利根川の一夜』、『十日間』 、『月見の夕』、『太十と其犬』等の一部に思いがけない茨城弁が描かれています。
この作品の中では特に『芋掘り』に多くの古い茨城弁が残されています。
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◆漱石が描いた茨城弁
もう一つ、夏目漱石(1867−1916)が足尾銅山を舞台にまだ社会人になる前の若い主人公の心の葛藤を描いた『坑夫』の中に茨城訛の人物描写シーンがあります。『坑夫』は明治41(1908)年1月1日から4月6日まで、91回にわたって『朝日新聞』に連載されたもので、当時の社会派小説の代表だったでしょう。興味のある方は、青空文庫 『坑夫』 図書カードNo.774をご覧下さい。漱石は、当時の文学界の重鎮でしたし、もともと『土』の製作を依頼したのは漱石だったそうです。しかし出来上がったものが漱石のイメージしたものとはずれがありました。漱石は、発刊の際(漱石45歳)に巻頭文を言い訳がましく長々と書いています。漱石は結局『土』を正しく理解せずまともに観賞できなかったことは文学界の定説になっているようです。
漱石は生粋の江戸っ子でしたから、この『坑夫』に出てくる茨城訛の人物はもしかしたら、長塚節に重ねていたことも考えられます。最初は茨城訛に嫌悪感を示しながら次第に消えていきます。ただし前半のほんの僅かな部分だけなので、茨城訛より当時の鉱山労働者の痛ましさを知ることができる珍しい小説(私小説風)です。
その後、長塚節は大正4年に37歳の若さでで結核で他界し、その翌年漱石が49歳で亡くなっています。長塚節の早世は実は『土』の執筆の執念がもたらした無理がたたったとされています。
ところで、言葉や生活慣習を根こそぎ変えたのは、ラジオとそしてテレビだったことは明らかでしょう。特にテレビは映像を伴い、置かれた情況がつぶさに理解できることが、方言の崩壊に繋がったと考えられます。今の若い世代の人達が『土』を呼んでどう思うかが知りたいと思います。そもそも『土』の文庫本はかつてどこの本屋さんにもありましたが、今や置いてあるところが少なくなってしまいました。
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◆大関柊郎の戯曲『宣伝』
大関柊郎は、茨城県筑波郡小田村(現つくば市)生まれ。『宣伝』大正11年に出版された、戯曲集『あらし』に収録されているものです。戯曲なので、ほぼ前文が茨城方言です。『べ・べー』『ぺ・ぺー』が圧倒的な多さで使われています。また促音を伴った『べー』があるのも貴重な記録になっています。
また長塚節の『土』と同様に現代語の終助詞『さ』に当たる『せ』や、『〜たんだ』に当たる『〜ただ』、『〜かい』に当たる『〜け』が多用されています。
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◆下村千秋の小説
下村千秋は、稲敷郡朝日村(現阿見町)生まれ。主な小説に『ねぐら』(大正8年)、『泥の雨』(大正12年)、『旱天實景』(大正15年)等の小品があり、いずれも農民文学です。
茨城方言の表現はやや大人しいのですが、貴重な言葉が記録されています。
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◆小泉卓の戯曲『五位鷺』と『彼岸前』
小泉卓は、筑波郡小田村(現つくば市)生まれで、土浦出身の高田保が活躍した溜池の演技座文芸部に勤務しました。後に文学界から遠ざかり、茨城県議会議員にもなった人です。二つの作品共農民劇で茨城方言の濁音が忠実に描かれています。
★死んだ爺さまが好きだっけがら、栗餅つくべえと思ふだ。
★お前(め)えごさあ勘違えしてんだっぺえ。
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◆横瀬夜雨の作品
横瀬夜雨は下妻市生まれの詩人ですが、その作品の中の風俗を描いた小品に『田舎の新春』(1934:昭和9年)があります。きっと茨城に残る古くからの風習を書き留めておきたいと思ったのでしょう。今になると貴重な作品です。
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