「江戸川君、スニーカー落としたの?」
哀は自分の声が震えているのが、よく分かった。
もし今自分の顔を鏡で見ることが出来たなら、きっと血の気が失せていることだろう。
「あぁ、そうだけど・・・・灰原見たのか?オレのスニーカー」
「・・・・・・・・ううん、見てないわ」
―彼女は嘘をついた。
その後通り雨が止む前に、何とか雨のシーンの撮影は終わった。
一時は文化祭に間に合わないんじゃないかと言われていた撮影も、順調に進んでいた。
残すはオープニングシーンとエンディングシーンだけである。
ヒロインがなかなか決まらなかったので、オープニングの靴を拾うシーンは延期されていたのである。
「シーン一、いきます」
一週間前にも同じようなことがあった。
まさかとは思ったけど、本当にあれはコナンの靴だった。
もしかしたら自分は確信していたのかもしれない。
落し物だったはずのあの靴を届けなかったのは、知っていたからかもしれない。
現に今もスニーカーは自分の鞄の中に大事にしまってある。
撮影が終わるまでの、自分のお守り。
撮影が終わったら、きちんと持ち主に返してあげよう。
でもそれまでは。
それまでは自分にちょっとだけ預けておいて。
「よーい、アクション!」
光彦の声に軽く頷く。
「靴・・・・・・・?」
哀はゆっくりとしゃがみ、自分の足元に落ちた左足だけの靴を拾い上げる。
一週間前と同様に。
思えば、あのときから始まっていたのだった。
一週間しかない撮影期間の中で、いろいろなことがあった。
それも(順調に行けば)今日で終わり。
「じゃぁ、続けてラストシーンの撮影に入りまーす」
そのときだった。
「っ痛・・・・・・・・・・」
「松田君?!」
一番近くにいたひとみが、足を庇って蹲る松田の肩を支える。
「どうしたんですか?」
光彦も監督椅子(と言ってもパイプ椅子だが)から立ち上がって、駆け寄る。
「足がどうかしたのかよ?」
コナンはひとみに代わって松田を支える。
「実はさっき捻挫しちまって・・・・」
松田の日に焼けた健康的な肌には、嫌な汗が流れ、
整った顔も苦痛によるのか歪んでいた。
相当痛いらしい。
「さっきのシーンでの撮影ね」
ひとみが言っているのは、さっき撮影したオープニングのスケボーのシーンである。
松田のことだから、なまじ運動神経が良いために、体を庇って足を捻ってしまったのだろう。
それを今まで周囲に全く気づかせなかったのは、何とも松田らしい。
「とりあえず保健室へ・・・・・おい!元太」
体の大きな元太を呼んで、二人で松田を保健室まで運ぶ。
松田の怪我はそこまで酷い捻挫じゃなかったが、
保健教諭に絶対安静と言われ、その場で病院へ連れて行かれてしまった。
「これじゃぁ、今日の撮影は無理ね」
「でももう時間がないよ?」
そう、編集時間を考えると、撮影時間はもうない。
今日がタイム・リミットなのだ。
「江戸川がやれよ」
「はっ?!オレが?」
藍沢の思わぬ提案に、仰天して声がひっくり返る。
「そうね、江戸川君なら松田君と体格も一緒だし」
「あとは光彦がOKだせばなぁ?」
ひとみも元太も乗り気である。
「どうせ後姿しか映らないから、大丈夫だと思います」
肝心の光彦も力強く頷いちゃったもんだから、さぁ大変。
「いや、オレが大丈夫じゃないんだけど?」
(何でこんなことになるんだよ・・・・・・・)
目の前に哀の姿。
こんなに近くで彼女を見たのは、何だか随分久しぶりのような気がする。
演技なんか(と言っても今回はただ立ってるだけだが)古畑以来だから、やたらに緊張する。
立っているだけなのに、足ががくがく震えて竦んでしまう。
足先に視線をやって両手で両脚をぴしゃりと叩く。
視線を上げると、彼女が笑っていた。
「よーい・・・・・アクションっ!!」
晴天の空の下、光彦の最後の声が響いた。
「・・・・ずっと貴方が好きだった」
本当に言われたわけではないのに、胸が高鳴る。
俯いて、今にも泣き出してしまいそうな彼女を、
この手で今すぐ抱きしめたかった。
どれぐらい経っただろう。
時間が一分にも一時間にも感じた。
相変わらず目の前の彼女は美しいまま、自分を見つめていた。
「はい、カット」
消え入るような、光彦の声。
「「お疲れ様でしたー!!」」
二週間に渡る撮影の終わりに、皆が歓声を上げる。
どこに隠してあったのか、スタッフから花束が出演者たちに手渡される。
監督であった光彦には、哀から一際大きな花束が手渡された。
その後、光彦は男子数人による胴上げの祝福も受けていた。
「卒業式じゃないんだぞ〜」
元太から花束を渡された歩美は、感極まって泣いてしまった。
「だって・・・・・だってさ」
歩美の震える肩を、哀が優しく抱き寄せる。
「灰原さん、お疲れ様でした」
光彦から差し出された右手を、哀はしっかりと握り返した。
「円谷君もね」
「誘ってくれてありがとう」
「こちらこそ、受けて下さってありがとうございました」
「いい経験になったわ」
「僕もです」
「灰原さんのために脚本を書き直してよかった」
照れくさそうに、光彦は微笑んだ。
「えっ・・・・・・?」
「脚本の子に頼んだんです」
「そう・・・・・だったの」
わざわざ自分のために書き直されたかと思うと、複雑な気持ちになった。
「今年で最後の文化祭だから、悔いが残らないようにしたかったんです」
まだ騒ぎの収まらない方向を向いて、光彦は感慨深そうに呟いた。
「灰原さん・・・・・・諦めの悪い男ですみません」
「これで最後ですから」と、彼は小さく呟いた。
「お疲れ様」
両手を背中にやって、哀が近づいてきた。
「お、おう」
その場にへばっていたコナンは、彼女を見上げる形になる。
ふいに、目の前にスニーカーが差し出された。
「これ・・・・・・・」
目を瞠って、彼女を見つめ返した。
「これ、本当は江戸川君のスニーカーなの」
「えっ・・・・・・・?」
「ずっと持っていてごめんなさい」
「・・・・・・・」
コナンはただただ驚いて、応えに詰まる。
「ずっと黙っていてごめんなさい」
淋しそうに微笑んで、靴を手渡す。
こうしてコナンのスニーカーは一週間ぶりに、持ち主のところへ戻ってきた。
そしてこれは、彼らの長かった映画撮影の終わりでもあった。
|