それから更に一週間が過ぎた。
相変わらず身体中痛かったし、記憶も取り戻せないでいた。
ずっとこのまま、記憶を取り戻さない方が幸せなんじゃないかとすら考え始めていた。
哀は病室でコナンが買ってきてくれた本を読んでいた。
今人気のミステリらしく、確かに非常に面白い。
自分はこんなものが好きだったのかと、毎日が新発見である。
博士もコナンもほぼ毎日逢いに来てくれた。
コナンは、程よくクーラーの効いたこの部屋で夏休みの宿題をやっていた程。
退屈しないようにと気を遣ってくれているのか、
本やらパズルやらいろいろ持ってきてくれる。
きっとあの少年はとてつもなく、お人よしなのだろう。
彼の漆黒の瞳を見ていると、何故かとても泣きたくなる。
喉と胸の奥がちりちりと灼けるような、痺れるような感じが襲う。
こういう気持ちを、人は何と呼ぶのだろう。
コンコン。
ふいにノックの音。
「はい、どうぞ」
散歩に行っていた二人が戻ってきたのだろうか。
静かに病室へ入ってきたのは、一人の大柄な男。
真夏だというのに全身黒ずくめの、カラスのような男であった。
その手には真っ赤な薔薇が溢れるほど。
深く被った帽子から流れる金髪が、窓から降り注ぐ太陽の光を浴びて輝いていた。
「・・・・・どな、た?」
今まで来たこともない人であったし、
とてもじゃないけれど二人の知り合いとも思えなかった。
「・・・・・本当に何もかも忘れてしまったんだな」
哀の問いに、彼は困ったように笑って見せた。
大人の男の人は少女相手にこんな顔をするものなのだろうか。
自分の過去の知り合いだということは、彼の言葉を聞いて理解した。
「ごめんなさい・・・あたし事故に遭ったらしくて・・・・全て忘れてしまったの」
彼は近づいてきて、空いている花瓶に薔薇を移し変える。
「風の便りで聞いた」
「貴方の名前は?」
そしてベッドの横の来客用の小さな椅子に、窮屈そうに腰かける。
「・・・・・ジン」
「仁さん?」
下の名前だろうか。
「・・・・あたしとはどんな関係だったの?」
この質問だけは、何故かしてはいけないような気がした。
でも彼が本当の自分を知っているとしたら、聞かずにはいられなかった。
この人なら、全てを教えてくれると思った。
この人なら、自分が失った記憶の欠片を持っているのかもしれないと。
小さな子供用のベッドが、大きく軋む音。
近くで見る顔は、思ったより若くない。
「志保」
懐かしい香りがしたと思った瞬間、自分の唇は塞がれた。
懐かしいと感じたのは煙草の香りだった。
昔よく嗅いだ記憶がある、大嫌いな香り。
彼のことが嫌いだった。
それでも何度も重ねた唇。
唇を塞がれたまま、そんなことをひどく冷静に思い出していた。
やがてどちらかともなく唇が離されて、そのままの形で言葉が紡がれる。
「恋人だ」
自分はその言葉を、ごく当たり前のように受け止めていた。
「お見舞い・・・ありがとう」
別れを仄めかすその言葉に、彼は目を瞠ってみせた。
「じゃぁ・・・・・・・」
くぐもった声が静かに響く。
それを遮って、
「じゃぁね」
軽い抱擁を交わして、彼は病室を後にした。
もう二度と逢うことはないだろう。
永遠の別れにしては非常にあっさりしていた。
たぶん昔から二人の関係はそうであったのであろう。
あるいはドラマティックな別れは、もう既に体験しているのかもしれない。
どっちにしろ、もう関係ない。
少しだけ、思い出したことがある。
彼が昔自分を愛していたこと。
自分もまた彼を憎みながらも、愛していたこと。
そして自分は宮野志保という名前で、ピュアな小学生なんかじゃないということ。
「ただいま」
二人が帰ってきた。
両手にはコンビニの袋。
頼んだアイスの袋が透けて見える。
「どうしたんだよ?こんな大量の薔薇」
ガラスの花瓶に活けられた見たことない薔薇に、コナンが不思議そうな顔をした。
「綺麗じゃのう・・・看護婦さんが持ってきてくれたのかい?」
「・・・・・どうして、嘘を、ついたの?」
自分の本当の名前は宮野志保なのに。
彼らはとても嘘をついているとは思えなかった。
自分は騙されていたのだろうか。
「灰原哀って誰なの?」
どうして他人の名前を使わなければいけないの。
何故本当の身分を明かしてはいけないの。
「ど、どうしたんじゃ?哀君」
「そうだよ・・・灰原哀はお前だよ」
二人の顔色が一瞬変わったのを、哀は見逃さなかった。
「あたしは何も解らないの。何も覚えていない」
宮野志保がどういう人間か解らない。
何を思ってどう暮らしていたのか、知る手立てはない。
「だから貴方たちの言葉を信じるしかない」
それなのに。
「・・・・・何で」
ふと漏らした、悲愴な声。
そう言う少年の顔は、逆光でよく見えない。
「じゃぁ何で忘れちまったんだよ・・・・・灰原」
『あたしの血はちゃんと紅いのかしら?』
『緑でないことは確かだな』
―人を殺したら人間失格ですか?
走馬灯のように駆け巡る、一部の記憶。
―あたし、人を殺した?
背中と二の腕に、鳥肌が立つ。
膝ががくがく震える。
寒くもないのに、歯までもががちがち鳴る。
「・・・これは罰なのね?あたしの血はまだ紅い?」
やっとのことで震える右手を差し出すと、コナンはそっと手のひらを合わせてくれた。
その手は涙が出てくるほど懐かしく、暖かい。
胸の奥で鳴る線香花火が止まない。
ロング・ディスタンス・コール。
過去からの糾弾。
―それでもあたしは思い出せない。
この嘘つきな少年を。
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