2…Amnesia






人の声が聞こえる。
溜め息交じりの
哀しい声。





誰かの影が見える。
すらりと足の長い美人。
黒い髪。
自分を手招きしている。



「志保っ!」
優しそうな笑顔。





これは幻?




















左手に暖かいものを感じる。
忘れかけていた、人のぬくもり。



誰・・・?
誰かが呼んでいるような気がする。

―あたしを呼ぶのは誰なの?



本当はこのまま何もかも忘れて眠っていたい。
何も考えたくない。



けれど自分を呼ぶ声の主が気になって目を覚ました。
随分長い間夢を見ていた気がする。

でも何ひとつ覚えてはいない。










視界の端にクリーム色のカーテンが見える。
ここは一体どこなのだろうか?
起き上がろうとして、初めて誰かが自分の左手を握っていたことに気がついた。





見たことのない少年。
縁の黒い眼鏡。
その奥にある優しくも哀しい瞳。





「目、覚めたのか?」

少年にしては低音の、穏やかな声。
その声は深く深く胸に響いてくる。
でもこんな知らない人に心配される覚えがない。





起き上がろうとすると、身体中に鈍い痛みが走った。
「痛っ・・・!!」
思わず声が出てしまった。

「そりゃそうだ・・・お前肋骨折ってんだぞ?」
少年が苦笑しながら言う。
「でも肋骨だけでよかったな」





何が何だか解らなくて。
病院みたいなこの部屋に寝かされている理由も解らないし、
何故自分がこんな怪我をしているのかも解らない。

この少年が誰なのか。



そして自分は一体誰なのかも。




















「林檎剥いたんだ、食うか?」
銀のフォークに刺したリンゴを向けながら、少年は無邪気な笑顔を見せた。



「ありがとう」
受け取って一口齧る。

綺麗に剥いてあるその林檎は蜜がたっぷりで、
「・・・・美味しい」
また思わず声が出てしまった。





「他に何か食べたいものでもあるか?」
「いえ・・・特には」
「じゃぁ、オレ博士とか呼んでくるから・・・・また少し休んどけよ」
そう言って背中を向けてしまった。



「あ、あのっ・・・・」
「ん?何?」





「貴方は一体誰?」



「・・・・・・・は?!」
少年の顔が一瞬にして曇る。





「こんなに優しくしてもらっちゃって・・・でもそんな理由が見当たらなくて」
少年の曇った顔に動揺し、上手い言葉が見つからなくてしどろもどろになる。



「お前・・・何言ってんだよ?!」
低音の少年の声が甲高くなる。
彼自身も何が何だか解らないみたいだった。





「どうなってるんだ・・・・」
目をあちこちに彷徨わせて少年が呟く。



「あの・・・・貴方の名前は?」
恐る恐る尋ねた。

「俺の名前・・・解らないのか?」
鋭く響く声。



「ごめんなさい・・・」
何に対しての謝罪なのか解らないが、謝るしかなかった。





考え込んでいた少年は、ふいに閃いたように聞いてきた。
「君の名前は?」

「えっ・・・?」
急に聞かれて困ってしまった。



「人の名前を問う前に君から名乗ってくれないか?」

「そう・・・ですね」
彼の言うことは一理ある。
自己紹介をして、こちらの身分を明かさないといけない。
そして自分が此処にいることの理由を、この少年から聞き出さないといけない。





「あたしの名前は・・・・」

頭ががんがんする。
まるでハンマーに思いっきり頭をがつんと殴られているようだ。
頭だけでなく、胃がむかむかする。
何かもやもやしたものが溜まっているような気がして、全て吐き出したいと思った。





「えっと・・・・誰だったかしら」



とても自分が発した言葉だとは思えなかった。
自分は一体どうしてしまったのだろう。

痛みと混乱だけが身体を支配する。
空虚な気持ちが広がっていく。



何もかも、思い出せない。
自分の顔すら解らない。





真っ青な表情を見て、彼は確信したようだった。

「・・・・記憶喪失」
少年の乾いた呟きが聞こえた。



その瞬間笑ってやりたくなった。
記憶喪失?!
あたしが?!





「とにかく医者を呼んでくるから、君は此処にいて」

同じように顔を真っ青にしながら、
自分自身に言いきかせるようにして少年は病室を出て行った。










一人残された自分は、病室を見回した。
すぐ側には緋色のキャミソールのワンピースが、ハンガーにきちんと掛けられている。
自分はこんな色が好きだったのだろうか。



自分が誰なのかも解らない。
そんな惨めな自分。

涙が出てきた。
こんなことが実際にありえるのだろうか。



これは本当に現実なのだろうか。
泣いている自分の顔すら思い出せずに、これが現実といえるのだろうか。
ただシーツに落とされた涙だけが、ひんやりと冷たかった。
それだけが、リアルであった。





















「脳に問題はありませんね」

汚れひとつない真っ白な白衣のドクターは言った。



カルテに目をやりながら
「おそらく精神的なものでしょう」
とのこと。

「記憶喪失はある種のヒステリーの発作として考えられます」
「ヒステリー・・・・・・・」
「自分の内から抹殺したいという強い感情が、そのまま記憶を消し去ることがあります」
「抹殺したい感情・・・・」
「ひとつの些細なきっかけでも、無意識のうちに」
「そう、なんですか・・・」
「器質的異常が認められないのに記憶が失われていることを考えると、まずそうでしょう」






「彼女の記憶は戻るんですか?」
と力なく少年が問う。



「記憶喪失は薬やセラピーは効きませんからね・・・・彼女次第です」
そう言ってドクターはこちらを見た。





胸が痛い。
喉の奥がちりちりと灼けるような感じ。





「ただ決して無理に思い出そうとはしないで下さい」
ドクターの優しい笑顔が、今の自分には辛くて下を向いてしまった。

「・・・はい」
小さくそう答えるしかなかった。



「肋骨を折ってますからね・・・・・暫くは入院が必要ですよ」

「・・・はい」





ドクターの笑顔は辛かったけれど、
父親が居たらこんな感じかなと思った。



そういえば自分の家族はどうしてるだろうか。
傍には例の少年と、初老の目じりの垂れた男性。
少年に『博士』って呼ばれているから、科学者か何かだろうか。

自分の身内だという彼ら。





こんな優しそうな人たちに囲まれて、自分はきっと幸せだったのだろう。
そうとしか考えられなかった。




















病院に運ばれて早一週間。

自分は「灰原哀」という名前の小学生で、
黒縁眼鏡の少年は「江戸川コナン」というクラスメイトだということを、
自分の親代わりである阿笠博士から教えてもらった。



江戸川コナンという一風変わった名前の少年は、毎日病室へ来てくれた。
聞けば今は夏休みで、小学校の授業はないそうだ。
それを聞いて何故だか少し安心した。
自分がその小学校へ戻れるかどうかも解らないのに。





「貴方はどうしてこんなにも気にかけてくれるの?」

「家が近所で一番親しかったから」

コナンはいつものように、器用に林檎を剥きながらそう答えた。
嘘かもしれないその情報を、自分は確かめる術がない。
でも彼の声も瞳も真っ直ぐで、とても嘘を吐いているとは思えなかった。



幸いなことに、日常生活に関する記憶は抜けていなかった。
文字もある程度書けたし、人との会話や食事も差し支えはなかった。
ただ、「自分」に関する記憶がすっぽり抜けてしまっていたのだ。



鏡を見て驚いた。
白いというより青い肌。痩せこけた頬。狭い額。
紅を差したわけでもないのに、何故か紅い唇だけがよく目立つ。
そして顎のラインで綺麗に揃えられている、赤茶色の髪。
こんな状態じゃなかったら、太陽の光を受けてそれは見事に輝いていただろうに。
今の自分では、つやを失って酷くパサついて見えた。

自分の顔すらも覚えていなかった。
自分はこんな顔立ちだったのだろうか。





自分は今までどんなことを想って、どんな風に生活していたのだろう。
自分も江戸川コナンも、何故か普通の小学生とは思えなかった。

一度その疑問をコナンに尋ねたことがあったが、
「二人とも変わり者だった」としか答えてくれなかった。





コナンは些細な疑問や質問にはいろいろ答えてくれたけれど、
自分の過去に関することやコナン自身については何も教えてはくれなかった。
「そのうち思い出すよ」って。





“そのうち”がいつ来るかも解らずに。






next pain.