紅い果実に
蒼い嘘
「痛ってーなぁ」
誰も居ない部屋で独り、誰かに声をかけるように呟く。
返事はいらない。
見返りは求めないから。
解っているのに。
そんな事は言われなくても解っているのに。
「ちっきしょー・・・・・」
左手で思いきり壁を叩く。
鈍い痛みと一雫。
頬に伝うものに、冷たい感触。
いつの間にか雨まで降ってきやがった。
だいたいここは工藤新一の部屋だ。
志保さんは出て行ってしまった。
追いかける気にもなれない。
拒絶されるのが怖いから。
「あんたなんかいらない」と言われるのが解っているから。
鍵は持っていない。
主無き部屋を無人にしておくわけにもいかない。
志保さんのことだから、雨が降ってもきっとどこかで雨宿りをしているはず。
そう考え、仕方なく主が帰るまで待つことにした。
静かである。
工藤新一の恋人は、相変わらず推理小説ばかりである。
また本が増えたみたいだ。
山のように聳え立つ本棚を見てそんなことを思った。
でも君は大切な人を見つけたんだね。
本よりもリアルな、推理よりサスペンスな。
そんな大事な恋人を。
「おかえり」
帰宅した新一を待っていたのは、玄関先に座ったままの快斗。
「あ・・・あぁ、ただいま」
様子のおかしい快斗に、敢えて理由を尋ねないで靴を脱ぐ。
「邪魔だ」
退こうとしない快斗を蹴るマネをする。
そのままリビングに促した。
「志保は?」
居るはずの彼女が居ないのを不思議に思って、何も知らない彼氏は心配そうに尋ねる。
自分が彼女を泣かし、出て行かせてしまったことは言えない。
「・・・・夕飯の買い物に」
親友の嘘に、君は気付けるかい?
「・・・・そうか」
気付けたとも気付けなかったとも何とも言えない態度。
やたら重そうなカバンから書類を取り出し、
柔らかそうな緑のソファーに腰掛け、読みふける。
「・・・・ところで何でおまえがここに居るんだ?」
「気付くのおせーよ」
新一は素晴らしい脳細胞を持ちながら、どうもどこか抜けている。
「遊びに来た」
嘘。
「おまえと遊ぼうと思ったら居ねーんだもん」
これも嘘。
本当は知っていたんだ。
君が今日捜査に行っていることを。
志保さんが独りでお留守番していることも。
「捜査に行くって言わなかったか?」
捜査資料から目を離さず、新一は呆れるように尋ねる。
「・・・・・知らない」
どうだい?
少しはオレの嘘、上手くなっただろう?
珍しく口数の少ない快斗を心配してか、
「・・・・・・何か悩み事でもあるのかよ」
「悩み事?」
悩みがあるように見えるかい?
「青子さんと別れたんだろう?それで何か悩んでんのか?」
「・・・・・・・・・・何で解った?さすがオレの親友、新一君」
何故解らない?
つくづく自分がイヤになる。
こんなことをしてもムダだって解っているのに、
オレの精一杯の悪あがき。
気付いてくれよ。
そして止めてくれ。
―――――『おまえ、哀しくないのか?』と。
台所には剥きかけのリンゴ。
志保は?
リンゴを剥きかけのまま出かけるような女か?
快斗の様子もおかしい。
青子さんと別れた?
それだけじゃなく?
「・・・・・・志保と何かあったのか?」
長い沈黙。
時が止まる。
ひんやり冷たい、雨の音。
その音だけが部屋に響いている。
快斗は何も答えない。
「・・・どうして何も言わない?」
新一はイライラし、問い詰める。
「・・・・・・・・・志保さんが好きだよ?」
そこにあったのは情けなく眉を下げた親友の姿。
泣きそうになりながらもじっと耐えて、
今までずっと溜めてきたものを吐き出すかのように言う彼。
「・・・・・・・・・志保さんが好きだったんだ」
もう一度はっきり言う。
すがるような子供の声。
「っ・・・・!!どうして言わなかった?」
快斗の肩に回していた手に力を込める。
泣きたいのはこっちだ。
何故今まで黙って独りで考え込んでいたんだ?
「言ったら志保さん譲ってくれた?」
語尾を上げ、訴えるようにはき捨てる。
「っ・・・!!おまえ・・・」
冗談じゃない。
譲る気なんかさらさらない。
息を荒くした新一に対して、快斗は呆れるほど冷静だった。
「・・・・・・・・・・・・・嘘だよ」
意地悪っぽく笑って両手で降参のポーズを取る。
「はぐらかすなっ!!」
そのまま部屋を出て行こうとする快斗を慌てて引き止める。
「・・・・本気なのか?」
譲る気はない。
だけど、おまえ・・・・・
「本気だよ」
漆黒の瞳がこちらを見ている。
どこか志保と快斗は似ているんだ。
そう。
それはたぶん、この瞳。
「いつから?」
「・・・・ニ人が付き合いだして暫くしてから気付いた」
本当は彼女のことが好きだったってことを。
君を裏切りたくはなかったんだ。
だから誰にも言わず、
深く深く、静かに時を待っていたのに。
「・・・・どうして言わなかった?」
新一は頭に手をやり、尋ねる。
「・・・・・・・親友の恋人、だから?」
語尾を上げたのは、そう。
きっと確かめるため。
「本当は墓場まで持っていこうとした」
泣き笑いになる。
この想いを。
そしてこの嘘を。
「でも志保さん、嘘付くから・・・・・」
堪えきれなくなって涙を流す。
淋しいはずなのに、強がって嘘を付くから。
そんな志保さんを黙って見過ごすわけにはいかなかった。
「オレもまだまだ青いな・・・」
本当に哀しいときとはきっとこんな風に泣くのだろう。
次から次へと溢れ出す涙。
涙を拭うことなく、ただ泣いていた。
それが当たり前のように。
ただ、自然に。
「・・・・おまえは中途半端に青かったんだ」
そう、色にたとえるならくすんだ蒼。
青に届かなかった、心の醜さを象徴した蒼。
付かずにはいられなかった、蒼い嘘。
抱きしめたかった。
この手で。
全てを捨てて。
何もかも忘れて。
抱きしめたかったんだ。
雨と同じようにさめざめと泣き出した快斗をほっとくわけにはいかず、
新一は温かいコーヒーを煎れてやる。
さんざん泣いて、快斗は少しすっきりしたようだ。
「・・・・・・・気分が落ち着いたら、志保を迎えに行ってやってくれ」
カップを片付けながら新一が言う。
「・・・・・・・?」
オレが?
「何?・・・・せめてもの罪滅ぼし?」
皮肉を言う余裕さえ出来ていた。
「違う。きっちり自分で終わらせるんだ」
終わらせる。
それは・・・
「もちろん譲る気はない」
親友の厳しい表情。
大きく息を吐いた。
そうだね、これが一番いい方法。
終わりにしよう。
これで綺麗さっぱり。
傷が浅いうちに。
「解りましたよ。きっちりお姫様を連れ戻してきます」
そう言って立ち上がる。
剥きかけのリンゴを一口ほおばり、外に出る。
甘くて酸っぱい。
紅い果実に、
嘘みたいに蒼い空。
いや・・・嘘はもういらない。
雨は止んで、天気は晴れ。
少しだけ救われたような気がした。
『アカシアの木の下で君に秘密の恋を誓おう』につづく