もっと一緒にいたかった。
いつも一緒にいたかった。

貴方が隣にいない生活に慣れるのが怖くて。




二時限目
貴方の高尚な悩み



「ねぇ、哀ちゃん」
休み時間あたしが文庫本を読んでいると、隣の席の彼が退屈そうに声をかけてきた。
「オレと付き合うこと考えてくれた?」
「・・・・・・・」
いつものことなので無視する。





四月五日。
桜の花が満開のころ、あたしは期待に胸を膨らませてこの高校の校門をくぐった。
新しい学校。
新しい教室。
新しい友達。
全てが新鮮で、穏やかな高校生活が始まると思っていたのに。
急に足元が涼しくなったかと思えば、あたしのスカートはめくられていたのだ。
春の風の悪戯ならまだ許せた。
だけどあたしの新しい制服のスカートは故意にめくられていたのだ。

「ピンク・・・・・か」
同じ新入生らしい彼は足元に座り込み、口元に手を当てて何やら考え込んでいた。
右手にはちゃっかりスカートの裾が握られている。
その瞬間、あたしはどこの誰だか分からない少年を思いっきり蹴り飛ばしていた。
あたしの回し蹴りは、見事に彼の頬にヒットした。
彼はまさか蹴られるとは思っていなかったのか、
少し離れた地面に座り込み、蹴られた頬を片手で押さえながら目を見開いていた。
ややあってから、彼はポツリと一言漏らした。
「君・・・・・可愛いのにいい蹴りっぷりだね」










あの魔の入学式以来、ずっとこんな調子だ。
まさか同じクラスになるとは思わなかった。
「ねー、哀ちゃーん」
「貴方には幼馴染の中森さんがいるじゃない」
「青子はただの幼馴染」
「貴方を好きな小泉さんもいるじゃない」
「でもオレは哀ちゃんのことが好きだから」
「・・・・・・・・・・・・」
「あぁ、何て罪なオレ」
彼はオーバーなくらい手を額にやって苦悩している風に見せる。

「随分高尚な悩みね」
彼はあまりにもストレートすぎて、面と向かって「迷惑だ」なんて言えない。
「快斗ー、哀ちゃん困ってるんだからいい加減諦めたら?」
彼の幼馴染であり、クラスメートでもある中森青子が助け舟を出してくれた。
「いや・・・・・・あの蹴りがオレを変えたんだ」
両手で拳を握り力強く言われても、あたしは特に何も変わっていない。
「快斗のことは無視しちゃっていいからね」
青子は少し淋しそうに笑いかけた。



あの子は彼が好きなんだ。
そしてさっきからこちらを睨みつけている小泉紅子も。
彼はあたしのどんなところが好きなんだろう。
ただ蹴られたから好きになったなんて、ただのマゾじゃない。










「わぁ!灰原さんのお弁当って可愛いー」
お昼休み。
色とりどりのお弁当が並び、おしゃべりが弾む。
仲の良い四、五人のグループで机をくっつけお弁当箱を広げる。
あたしのお弁当を覗き込んだ歩美は
「これって毎朝哀ちゃんが作っているの?」
尊敬の眼差しが向けられる。
「えぇ・・・・そうだけど」
「私のはママが作ってくれるの。お料理苦手だから」
その分愛嬌があるじゃない。
彼女は愛らしく舌を出して笑った。

「そういえば工藤先生ってお昼どうしてるんだろ?」
「何?また工藤先生?」
歩美が工藤先生に憧れているのは、グループの中では有名な話だ。
「学校でお弁当とってるらしいよ」
「幸福堂の?うわー贅沢」
幸福堂というのは、近くある少しお高いお弁当屋さんだ。
「でもいくら幸福堂っていったってだいたい同じメニューでしょ?」
「栄養片寄っちゃうよねー」
「歩美、お弁当作ってあげたら?」
「え・・・・無理だよ。料理なんて」
歩美は頬を赤らめて、フォークでプチトマトを刺してほおばる。

「工藤先生一人暮らしなんでしょ?」
「男の一人暮らしってどうなんだろうね」
「白馬先生はきちんと自炊してそー」
「あー、わかるわかる!」
「服部先生も意外と自炊してそう。男の料理って感じで」
白馬先生と服部先生と工藤先生は同期で、学校中の女の子の憧れの的である。
白馬先生は世界史担当で、お洒落で理知的で一部ではファンクラブまであるとか。
服部先生は体育担当で、剣道に優れていて男気があるって評判。

「でも白馬先生って絶対、灰原さんのこと狙ってるよね?」
「言えてるー!世界史の時間いっつも灰原さんのこと見てるし」
「いいなぁ、好かれていて。白馬先生かっこいいし」
あたしはどうコメントしていいかわからず、曖昧に笑っていた。
「私は断然工藤先生派!」
歩美が口を尖らす。
「まぁ、皆憧れてはいるけど歩美ほど好きじゃないよね」
「せんせーに恋愛感情なんて不毛よ」
誰かが笑って言ったけど、あたしは笑えなかった。





きっかけはささいなこと。
たまたま担任が彼だったから。
たまたま入った学級委員会の担当教員だったから。
たまたま古文が好きだったから。



そして
たまたま入学当初、図書館で声をかけられたから。










「珍しいな、生徒がここに来るなんて」

あれは桜が名残惜しそうにまだその輝きを放っていたころだったと思う。
「・・・・・・・・工藤先生」
春の暖かい光を浴びた放課後の図書室で、彼に会った。
毎日HRで顔を見合わせているはずなのに、別人のように見える。
放課後の図書室は静かで落ち着くので、毎日通うのが日課となっていた。
そんなある日の放課後。

「君は・・・・うちのクラスの灰原か」
彼は物覚えがいいのだろう。
まだ五日しか経っていないのに、クラスに四十人もいるのに、あたしのことを覚えてくれていた。
「うちの高校にこんな立派な図書室があったなんて驚きです」
高校見学のときには気づかなかった。
普通の高校では、こんな大きな図書室滅多にない。
本好きのあたしとしては嬉しい限りだ。
「その割にはあまり利用者はいないんだけどな」
先生はとても残念そうに眉を下げて笑った。
見渡すと確かに誰もいない。
いつもは生徒が数人いるのに、今日に限って人の気配がしない。
司書の先生もいないみたいだ。
本に夢中になりすぎて人の存在など忘れていたのだ。



「先生はどうしたんですか?」
「ん?本を返しに来たんだ」
そう言って脇に抱えていた本を示す。
『失敗しない初めてのガーデニング』なんてタイトルがついている。
あまりにも目の前にいる人物とかけ離れているので、
笑い出しそうになるのを堪えて訊ねる。
「・・・・・・先生ガーデニングするんですか?」
「あぁ、これは養護の毛利先生に頼まれてな」
美人で笑顔が優しい養護教諭の顔を思い出す。
「・・・・・・そうですか」

ピンポンパンポン・・・・・
ちょっと間抜けな音がして呼び出しがかかった。
「工藤先生、工藤先生。会議が始まるので至急職員室にお戻り下さい」
呼び出しがかかったが、先生は動こうとしない。
反対にフラフラと本棚の間をうろつき始めた。
「先生?」
「面倒だからサボリ」
教師らしかぬ発言をし、あたしの方を向いて舌を出して笑った。
呆気にとられているあたしを横目に、先生は慣れた手つきで本棚から一冊の本を手にとり、
カウンターの前にある椅子に座って本を読み始めてしまった。
「内緒だぞー」
勝手に秘密の片棒を担がされたあたしは、
何も言えずに隣に並んで座っていたのだった。





今から思えば、あのときから目で追っていたのだと思う。
悪戯好きな少年のような先生。
不毛かもしれない。
望みなんかこれっぽちもないかもしれない。
それでもあたしは工藤先生に恋したんだ。

『お弁当作ってあげたら?』
『工藤先生一人暮らしなんでしょ?』
お弁当かぁ。










翌日、四時限目のチャイムと同時に教室を飛び出す。
三階まで一気に階段を駆け上り、階段近くの職員室を覗く。
ガラス戸になっているため、開かなくても中が見える。

いた。

いつもの席で事務員と何やら話している。
「工藤先生ー、お昼どうしますか?」
「じゃぁ幸福堂のAランチでお願いします」
事務員が訊ねると、工藤先生は慣れた感じで答えた。
「あら、工藤先生。またお弁当ですか?」
そこに現れたのは毛利先生。
「私作ってきたんです。よかったらどうぞ」
どこから出したのか、深い蒼の弁当箱を差し出す。
「えっ?!いいんですか?遠慮ないですよ?」
「えぇ、そのつもりでしたのでどうぞ」

そうして先生は嬉しそうに受け取ったんだ。



あたしは自分が持ってきた緑のナプキンに包まれた黒の弁当を見つめた。
中身は見えなかったが、絶対向こうの方が美味しいに決まってる。
急いでそれを後ろ手に隠して走り出した。
あのお弁当を食べる先生の姿なんて見たくない。





階段の踊り場で快斗を見つけたときは、不覚にも涙が出そうになった。




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