キーンコーンカーンコーン・・・・・
八時半ジャスト。
鈍いベルの音が鳴る。
コツコツコツコツ・・・・・
リズミカルな革靴の音が遠くから聞こえてくる。
心地が良くて、思わず目を閉じて聞いていた。
この音を聞かないと一日が始まらない気がするのは、自分だけだろうか。
後ろのドアの窓に、慌てて駆け込んでくる姿が映る。
今日は濃いグレーのスーツだ。
一瞬だけ紺のネクタイが揺れるのが見えた。
そして前のドアが勢いよく開かれる。
さぁ、あたしの出番。
「きりーつ、れー、ちゃくせーき」
学級委員ならではのマニュアル通りの言葉を発して、自分も席につく。
「おはようございまーす」
彼は黒い出席簿を教卓に置き、眠たそうな声を上げた。
「先生ー、挨拶くらいもう少し真面目にやって下さいよ」
クラスの人気者の吉田歩美が冗談交じりに注意する。
「だって眠いじゃんかよー」
彼はちっとも教師らしくない言葉を口にする。
まるで近所のにーちゃんと話してるみたいだ。
「休みは・・・・・黒羽だけか」
教室をぐるりと見渡し、ペンのキャップを口に咥え、出席簿に何やら書き込む。
そんな彼は教室の魔法使い。
クラスの皆に魔法をかけてくれる。
あたしもそんな魔法の虜になった一人。
「んじゃ、今日も一日頑張れよ」
全く、ヤル気があるんだかないんだか。
決して教育に熱心なわけなじゃないけど、
男女問わず何故かすごく人気者。
去年教師になったばかりの新人で、我が1−Bの担任。
二十四歳独身。牡牛座。担当教科は古文。
彼の名前は、工藤新一先生。
「で、源氏の君は若紫を無理やり連れて帰っちゃったってわけだ」
今日の五時限目は工藤先生の古文。
五時限目はお昼休みの後だから少し眠いんだけど、
この時間だけは眠るわけにいかない。
先生は、お世辞にもあまり上手とは言えない字と絵で黒板を埋めていく。
「源氏ロリコンじゃん」
「っていうか拉致じゃん?犯罪だよ」
源氏物語の一部を学び、皆口々に感想を述べる。
「千年以上昔のものが今も尚、世界中の人に愛されてるということは、それだけ面白いことだぞ」
卒論で源氏物語をやったという先生は大の源氏好き。
「先生もロリコンなんですか?」
「私たちに望みはありますかー?」
という女子達の発言にはさすがの先生も困っていた。
「おまえらなんか相手にしねーぞ?オレは年上好きだからな」
口元を歪めて腕組したまま先生は言った。
その言葉がぐっさり胸に刺さる。
(ふーん・・・・年上好きなんだ・・・・・)
机の上に肘をついて、背の高い先生を見上げる。
あたしはどう頑張っても、先生より年上にはなれない。
気分が重くなってきた。
「っていうか工藤先生って養護の毛利先生と付き合ってるんじゃないの?」
歩美の声に、クラス全員が興味シンシンの目で先生を見つめる。
その噂は何度か耳にしたことがある。本人に直接確かめたことはないが。
「・・・・バーロ、どこでそんな噂が流れてんだよ?」
口ではそんなこと言っているが、耳まで赤いのが一番後ろの席でもよく解る。
「って授業脱線させてんじゃねーよ・・・・続けるぞ」
そう言って、照れ隠しのように黒板の方を向き、汚い字でまたつらつらと書き始めた。
「えー、その辺どうなのよ?せんせー!」
クラスの子たちはまだぶーたれていたが、授業はそのまま進められた。
頭痛がした。
ちらりと黒板の横の時間割票に目をやる。
最後の六時限目は保健の授業だ。
次の時間は保健室にでも行こう。
とても授業を受ける気にはなれない。
ノートにシャーペンでぐちゃぐちゃ書きながら、そんなことを思っていた。
工藤先生のHRには出たいから早退はしない。
「あら灰原さん・・・・・また具合悪いの?」
養護の毛利蘭先生は若くて美人でグラマー。
真っ白な白衣の上に漆黒の長い髪が揺れている。
男子生徒と若い独身教師の憧れの的だ。
「顔色悪いわね、ちゃんと食べてる?少し寝てていいわよ」
おまけに気立てもいいから、敵いっこない。
保健室常連のあたしは何も咎められることなく、空いているベットに横になる。
保健室にはベットが二つあるのだが、今は一つ使われているみたいだ。
「毛利先生・・・・・」
「ん?どうかした?」
『工藤先生と付き合ってるって本当ですか?』という言葉を飲み込んで、首を振る。
「いいえ・・・・何でもないです」
「じゃぁ、私ちょっと出てくるけど大丈夫よね?」
「はい」と小さく返事をし、目を閉じる。
ストーブの音が聞こえるだけで、辺りはとても静か。
特に眠いわけではないので、しばらくは目を閉じたまま静かにしていた。
だんだんと深い眠りに落ちそうになったそのとき、
「哀ちゃんって身体弱いよねー」
『今日は天気がいいよねー』みたいなノリで隣のベットから声が聞こえた。
カーテンが閉まっているから誰が声をかけてきたかは解らない。
でもこの声は確か・・・・
「快斗君ですっ」
シャーとカーテンが開かれる。
向こう側にいたのは、同じクラスの黒羽快斗だった。
もう一つのベットを使っていたのは、どうやら彼らしい。
「人が寝ているベットのカーテンを開けるなんて、マナー違反よ」
頭を起こさずに、首だけ動かして彼を咎める。
「よく保健室行ってるよね。オレもよくここに来てるんだ」
「貴方今日休みじゃなかったの?」
「なのに何で今まで会わなかったんだろ」
「・・・・・人の話聞いてないでしょ?」
「あ、オレがしょっちゅう学校来てないからか」
「・・・・・出席日数大丈夫なの?」
「心配してくれてんだ?」
「・・・・・・・・・・」
彼と話していると疲れる。
ましてや、今は具合が悪いのだ。
「嬉しいなぁ。哀ちゃんがオレを心配してくれて」
入学式で声をかけられて以来、何故かどうも好かれているみたいだ。
悪い気はしないが、気持ちに応える気はない。
「確かに顔色悪いねー、元から身体弱いの?」
「えぇ・・・・・まぁ」
丈夫だったら、保健室の常連なんかになってない。
「毛利先生って美人だよねー」
彼の発言は突拍子もない。
「えぇ・・・・・そうね」
今一番話したくない話題だ。
「敵いっこないって思ってるでしょ?」
「えっ・・・・・・・?」
キーンコーンカーンコーン・・・・・
タイミングがいいのか悪いのか。
「じゃ、工藤先生のHRも始まることだし、一緒にクラス戻ろっか」
憎めない無邪気な顔で、彼はあたしの手を引いた。
その笑顔が全てを見透かしているようで、
あたしは身体を硬くしたまま、ただ黙ってついていくしかなかった。
誰にも言ったことないのに、どうして彼は解ったんだろう。
顔に出てるのかと思い、頬をつねってみた。
少し痛くて、瞳の淵に涙が滲んだ火曜日の午後。
「灰原六時限目欠課っと・・・・おまえ欠課が多いけど大丈夫か?」
「大丈夫です」
教室に戻り、毛利先生に書いてもらった診断書を工藤先生に渡して席につく。
前の席の歩美が振り返って「平気なの?」と心配そうに声をかけてくれる。
お人よしの彼女を心配させないように、「平気」と笑ってみせる。
教卓では快斗が怒られていた。
「おまえは何のために学校来てんだよ?」
授業に出ずにHRだけ出てきた快斗に先生は絶句する。
「昼寝するため」
「おまえ単位やらねーぞ?」
「そこを何とか工藤先生のお力でv」
「ったく調子いいな。オレの古文ぐらいは出ろよ」
「はーい」
よい子の返事をして、彼は自分の席につく。
そういえば彼とは隣同士だった。
「こういうとき、優等生って便利だね」
あたしの方を向いて、何の悪びれもなく言う。
「だから学級委員なんてやってるのよ」
あたしは前を向いたまま、口の端を上げてそう言ったもんだ。
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