この教室で眺めるのも、これが最後だから。



act-5…Ai & Shinichi
「振り返れば先生がいる」





年が明けたらすぐ入試で、あっという間の卒業式。
国立組は合格発表がまだなので、自分たちは何とも落ちつかなかったが。

それでも卒業式はやってきて、流れ作業の卒業証書授与式が始まった。
先生がマイク越しに「灰原哀」と呼んだ声は、緊張感こそ漂っていたがよく響いていつもと変わらない。
「はい」と返事をした自分の声こそ、がくがく震えて動揺していた。
証書をもらって席に付いた頃には、そういえば下の名前なんて初めて呼ばれたかもと冷静になった。

答辞を読んだのはあの黒羽快斗だったため、生徒たちは大いに盛り上がった。
三日寝ずに考えたという答辞は、彼には珍しくまともな内容で、途中泣き出した女の子もたくさんいたけれど、
「僕はこの高校三年間大好きな人に振られっぱなしでしたが、これこそがいつまでも色褪せない鮮やかな青春です」
などと締めくくったときには、あたしはこの場から逃げ出したくなった。工藤先生は笑いを堪えていた。
他の教師陣はというと、何をしでかすか解らない問題児に最後までやきもきしていたようだった。

あれから、あたしたちの関係は何も変わらなかった。
一年のときに初めて告白したときから、先生はずっと変わらない。
誰にでも平等に、生徒を大事に扱う優しい先生。
この変わらない態度こそ、答えなのだと思った。



「というわけで、皆さん卒業おめでとうございます」
工藤先生の最後のHR。この教室でこのメンツでこのHRが行われるのは、もう二度とない。
華やかに飾られた黒板の前で、工藤先生は晴れやかな笑顔で巣立っていく生徒を見守っていた。
本音では「やっと肩の荷が下りた」とでも思っているかもしれない。

「悔いのない青春を送れた人も、誰かさんみたいに悔いの残る青春を過ごしてしまった人も―」
と始まる挨拶では、担任教師として最後にきちんと笑いも取って。
快斗だけは卒業証書を下に頬杖を付いて、不貞腐れていたけれど。

「高校生活で培ったもの…感情や経験は、きっと未来の自分を助けてくれると思います」
―高校三年間で培ったものなんて、先生への感情しかない。これは未来の自分を支えてくれるのだろうか。
「少しでも皆さんの未来へのお手伝いが出来たのなら、教師として大変光栄に思います」
―恋愛感情のお手伝い?それは十分立派に務めてくれましたよ。

そして、先生から一人一人に卒業アルバムを手渡される。
手渡すときに先生は、生徒に一言ずつ何か声をかけていた。律儀な先生らしいと思う。
「卒業おめでとう」とシンプルな緑の表紙の卒業アルバムを渡されて、「ありがとうございます」と素直に返した。
顔は上げられない。目を見て暗に「さよなら」と言われるのが怖かったのだ。
自分にかけられた言葉は、「学級委員、お疲れ様」だった。

ねぇ、先生。それが答えなんですか?





HRが終わると、後は解散。
皆それぞれ写真を撮ったり、友人や先生と談笑したり、何故か校庭を走り回ったりしている。
先生は、クラスの子から全員で書いた寄せ書きと花束をもらって、心底嬉しそうに笑っていた。
こちらの視線には気づかない。もうこの教室で、こうやって先生を眺めることはない。

あたしはクラスの子たちと暫く別れを惜しんでいた。アルバムの余白に、メッセージを書き合ったりした。
その後は、歩美と待ち合わせている昇降口へと向かう。二人で写真を撮る約束をしているのだ。

「哀ちゃん」
一階の踊り場で後ろから声をかけられ振り返ると、快斗はこちらを見下ろしてにやにや笑っている。
何だか凄いことになっている。制服がところどころ破れていて、ボタンが全て奪われている。
「どうしたの、それ」と聞いても、ただ不敵に笑っているだけだった。

「気づいていないみたいだから、良いことを教えてあげようと思って」
そう言って、彼は卒業アルバムの最後のページを広げて見せた。
そこには見覚えのある筆跡で、何か書かれている。
よく見ようと階段を上って近づいたら、快斗はパタンとページを閉じてしまった。
「哀ちゃんのには、何て書いてある?」

アルバムなんて、ゆっくり見ていなかった。
クラスメイトとメッセージを書き合ったのも、最初のページの余白部分のみだった。
何が書いてある?
誰がこんなことを?
そんなことが出来るのは、一人しかいない。



『灰原哀さんへ、卒業おめでとうございます。
 三年間学級委員を務めてくれて、どうもありがとう。冷静沈着な生徒で、僕は大変助かりました。
 いろいろと迷惑をかけて、優秀だからと甘えてしまってすみません。君が受け持ちの生徒で良かったです。
 君が幸せであることを、いつまでも願っています』



見るなり、駆け出していた。
快斗を置いて、歩美との約束も忘れて。











「灰原哀」と呼んだ声はいつもと変わらなかったかと、呼んだ後に急に不安に駆られた。
意識しなくても、他の生徒とトーンを変えて呼んでしまいそうになったから。
彼女はそんなこととは露知らず、「はい」と凛とした返事で壇上に上がっていく。
こちらの視線には気づいていない。あの一件から目を合わせてくれないのだ。

あの日、自分は再び間違いを起こしそうになった。
体中の血液が沸騰し、暫く動けなかったのが幸いだった。
彼女から引いてくれなければ、抱き締めて押し倒していたかもしれない。
一体いつからあんな駆け引きが出来るようになったのか。女は怖い。

おかげで目が覚めた。
初めて逢ったときから、あの少女に参っていたのだ。
放課後の図書室で、春の暖かい光を浴びている紅い髪の新入生に一瞬だけ見惚れてしまったときから。
いつもは冷静沈着な誰からも頼りにされている学級委員なのに、恋愛のことになると不器用な彼女。
「教師だから」という理由で、ずっと封じていたんだ。



「というわけで、皆さん卒業おめでとうございます」
このクラスで行う最後のHR。三年生を送り出すのは初めてのことなので、何だか感慨深いものがある。
生徒一人一人に一言ずつ声をかけながら、卒業アルバムを手渡す。
「ありがとうございます」と返された彼女の声は、機械みたいに温度がなかった。
上手く視線が合わせられなかった。彼女の瞳に失望の色が浮かぶのを見るのが怖かったのだ。
「学級委員、お疲れ様」と最後に声をかけても、返事は返ってこなかった。

当然だと思う。
もう嫌われても仕方のないことをしてしまった。いや、もっと以前から。
それでも「好きだ」と言ってくれていたのに。

「今更気づいても、全てはもう遅いのだ」と神様の声が天から降ってくるように感じる。
卒業式の前の晩に、生徒一人ずつのアルバムにメッセージを書き込みながらそんなことを思った。



HR解散後、教え子に散々集られて写真撮影やお喋りに応じた。
そこで生徒全員から寄せ書きと花束を渡されて、うっかり泣きそうになった。
雑務が残っているので職員室へ一度戻ろうと教室を出たところで、快斗に呼び止められた。

既に快斗は戦争でも起きたかのようにボロボロになっていて、学ランのボタンが全滅していた。
彼の片思い相手は全校生徒に知れ渡っていたが、それでもあの答辞で株を上げたらしい。
「よ、色男」と声をかけると、明らかに不機嫌そうな顔で「何だよこれ」とアルバムを開いてみせた。

「ラブレターだよ」
「生徒全員分なんて、随分浮気性だな」
確か快斗には『大学生にもなったら遅刻はしないように』云々と書いた覚えがある。
「哀ちゃんには、何て書いたわけ?」
「別に。普通だよ」
ただ、三年分の感謝を。言葉では伝えきれない程の。

「で、卒業までに彼女を落とせたの?」
「合格発表まだなのに、その単語は出さないで欲しいんですけど」
ここは古文担当である自分が担任のくせに、国立理系クラスだ。確かにこの単語は縁起でもない。
「でもお前が先に言ったんだろう?」
「卒業までに、落としてみせますよ」なんて威勢の良いことを言っていたのは、どこのどいつだというのか。

「最初から勝算なんてないですよ。オレは土俵にすら、上がらせてもらえなかった」
そう言う快斗の横顔は、言葉とは裏腹にさっぱりしていた。
「でもまだ大学っていうステージがあるから、そこで一発逆転があるかも」とへこたれることなく笑ってもいた。











涙でぐしゃぐしゃになりながら、先生を探しに校内を駆け回った。
教室―いない。
職員室―いない。
校庭―いない。
だとしたらあそこしかない。

図書室の扉を思いっきり開く。古い教室なので、ガラガラと大きな音がした。
目の前には、ずっと探していた人の後姿。音に驚いたように、その人物が振り返る。
先生は、かくれんぼをして鬼に見つかった子供のように茶目っ気のある顔で笑っていた。
まるで「見つかっちゃった」とでも言いたそうに。

ゆっくり近づいても、先生は動じることなくその場で笑っているだけだった。
腕がゆっくり広げられる。まるで「おいで」と誘っているかのように。
その広い胸に顔を埋める。黒いスーツに涙の跡が滲み込んでいった。

「先生、何も解ってない」
いつだって、あたしの幸せは先生と共に在ること。

「先生、好き…」
教師とか生徒とかモラルとか、そんなものは関係なくて。
「想い出になんか、出来ません」
ただ綺麗なまま、宝石箱に仕舞っておくことなんて出来ない。

「ただ、好きなの」





いつかのように、引き離される。でもその動作は柔らかくて、先生は笑っていた。
「おいで」と手を引かれ、図書室を出て校庭へ向かう。
手を繋いだままの二人を、周りの生徒が不思議そうに眺めている。

「せ、先生…」
周りの視線が恥ずかしくて、居たたまれなくて。
手を振り払おうとするけど、その手はしっかりと握られていて。
どんなに力を籠めても男女間では力の差がありすぎて、先生は手を離してくれようとしない。

先生は何も言わずに、周りの視線を何とも思わないように、賑やかな校庭をずんずんと突っ切っていく。
その先には校門が見えて、思わず声が出る。
校門から一歩出たら、自分たちは「教師と生徒」の関係じゃなくなる。
猶予期間が終わる。先生は返事をくれようとしているのだ。

大きな一歩で、二人して校門の外へ出る。その瞬間に、ぐっと引き寄せられた。
周りのギャラリーから悲鳴に近い声が出ているのが、どこか遠くの出来事のように思えた。

漆黒のさらさらな髪。チョークを持つ長くてしなやかな指。睫が長くて、どこか幼い印象を与える二重の瞳。
その瞳が、今は自分をしっかり捉えている。先生の瞳の中に自分が映ってみえる。
三年間の感情が、先生の全ての仕草と表情が、走馬灯のように頭の中を回る。


先生は悪戯っぽく笑って、「これでオレは許される?」と耳元で囁いてキスをした。




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