「先生、あたしに二年、猶予を下さい」 「猶予?」 「この二年間で、先生を振り向かせてみせます。そうしたら、卒業式に返事を下さい」 「いや、それは…」
「猶予を下さいって言いましたよね?先生を許す猶予期間です」
我ながらズルイと思う。
十六の春に担任とした約束は、あたしの最後の切り札だった。
「振り向かせてみせる」なんて大見栄張ってしまったが、策など何もない。
自分の気持ちだけでしか勝負出来ない。
こんなことじゃ、先生は振り向いてなどくれない。
そんなこと解っているのに。
ほんの一瞬重なるだけのキスと、あの日ペンギンの水槽の前で絡ませた指だけが、あたしの青春全て。
それだけでも幸せだと思う。
優しい先生は、あたしのお願いを何でも聞いてくれた。
気まずくなるのを恐れたので「学校内で変に避けないで欲しい」と頼んだら、以前と変わらずに接してくれた。
図書室で勉強も教えてくれたし、水曜日の放課後は一緒に読書の時間を過ごすことが出来た。
それでもこれ以上を望んでしまう自分は、どうしたら良いのだろうか。
「ねぇ、哀ちゃん。どうしても無理なわけ?」
三年生に進級して最初の席替えで、彼の隣の席を当ててしまったのは災難だった。
三年間何故か同じクラスで、今一番関わりたくないヤツ。
しかもこのクラスは一年間席替えがないという非常さ。
「関東大震災が起こっても無理よ」
数学のノートに目を走らせながら、隣人の戯言を適当にあしらう。
いくら自習時間だからと言って、暢気にお喋りしている暇はない。
「どうしても?」
「どうしても。好きな人がいるって言ったでしょう?」
声のトーンを落として、この話は終わりと口を噤もうとした。
この話題は避けたかった。ましてや今は自習中でクラス内は騒がしいとはいえ、一応授業中だ。
誰が聞いているのか解らないのに、こんなところで話せる内容ではない。
「でも諦めないよ。哀ちゃんがうんって言ってくれるまで」
「…貴方が諦めが悪いように、あたしも諦めが悪いの」
「気が合うね。席もよく隣になるし」
「席は関係ないわよ」
自分のくじ運の悪さに、嫌気が差してくる。ついでに隣人の諦めの悪さにも。
「教師なんて、やめときなよ」
本当に。やめられたら、どんなに楽か。
「学生は同級生と付き合った方が絶対良いって。オレにしときなよ?」
大根の安売りみたいなその軽い言い回しに、うっかり「うん」と返事をしそうになる。
「卒業したら先生とはもう逢えないけど、オレなら大学一緒だし」
「そういうことは、大学に受かってから言いなさいよ」
先生と逢えなくなるなんて、考えたことなかった。
自分から卒業式に返事が欲しいなどと言っておきながら。
卒業したら、自分たちはどうなるというのだ。
「…卒業式に、返事がもらえるの」
仕方なく例の話をすることにする。これを話したら、解放してくれると思ったから。
「勝算は?」と意地悪く聞いてくる快斗を無視して、数学のノートとにらめっこ。
「…じゃあ、それまで頑張ればこっちにも勝算があるってことだね」
「どう解釈したらそうなるのよ」
このクラスメイトを黙らせる方法はないかと周りに助けを求めようとするが、周りもそれどころではないらしい。
来月の定期テストのため、受験のため、周りに構っている暇などないのだ。
このクラス内でこんな話をしているのは、きっと自分たちだけだろう。
「卒業式の日、泣きたくなったらオレのところに来ても良いよ」
「縁起でもない」と一蹴する。
「それに…あたし、そんなに都合良い女じゃない」
あっちがダメなら、こっちで手を打つなんて。
「解ってるよ」
先生に面立ちが少し似ている快斗の声は、優しかった。
その優しさが堪らなく、自分を追い詰めるのだ。
「先生…黒羽君がうざいんです」
「それはオレに言われても」
担任に呼び出された水曜日の午後。思い切って人生相談。
「さっき、そこで吉田さんに逢いました」
「そうか」
久しぶりに逢った元クラスメイトは、受験に疲れた顔を見せていたが、すっかり吹っ切れたようだった。
自分もいつかは吹っ切れるのだろうか。
この人を嫌いになる日など、来るのだろうか。
先生を想っても泣かない日など、来るのだろうか。
「それより灰原、この間の模試の結果解ってるか?」
「…全部黒羽君のせいなんです」
そんなこと嫌って言う程解っているので、全ての罪を快斗に被ってもらう。
「黒羽君がしつこく迫ってくるので、勉強に集中出来ないんです」
「それは災難な…不順異性交遊は程々にしとけよ」
先生はさも可笑しそうに、口元を手で隠してにやにや笑っている。
そんな台詞、聞きたくない。
そんなことを言われるために来たんじゃない。
確かに成績が落ちてきているのは確かだが、成績のことなんてどうでもいい。
「あたしの気持ち、知っているくせに」
慌ただしく人が出入りする職員室の喧騒の中では、この声は聞こえない。届かない。
誰にも気づかれないように、そっと先生の長くしてしなやかな指先に触れてみた。
「あたしが勉強に集中出来ないのは…」
「―解った。黒羽には、きつく言っておくから」
指がさり気なく振り払われる。「そんなんじゃない」という言葉をぎゅっと飲み込んだ。
その日の放課後は、図書室で読書の日。
最終下校時刻の六時を回っても、先生は来なかった。あたしは諦めて、帰る仕度をする。
すっかり日が暮れてふと周りを見渡すと、蛍光灯の安っぽい光の中には自分しかいなかった。
司書教諭も荷物を取りに、職員室へ上がってしまったみたいだ。
ガラガラと、引き戸が開く音がする。司書教諭が戻ってきたのだろうか。
「すみません、すぐ帰ります」とドアの方に声をかけるが、返事はなかった。
訝しんで荷物を待たぬまま死角から飛び出すと、ドアの前には工藤先生が突っ立っていた。
「…どうしたんですか?」
「ごめん、また約束破った」
息を切らした先生は、顔の前で「ごめん」と両手を合わせて頭を下げている。
その仕草が母親に叱られた子供のようで、あたしは少し笑ってしまった。
「別に毎週約束しているわけじゃ、ありませんよ?」
これはあくまで習慣で、臨時の職員会議やら部活動やらですっぽかされたことは、今までで何回もある。
それでも自分は構わないと、毎週ここへ来ている。
今日は来てくれるかなと、一縷の望みを持ちながら人を待つのは、なかなか楽しい。たとえ来なくても。
今だって、今日はもう来ないかと諦めて帰るところだったのに。
「だけどこの前も職員会議ですっぽかしたから…」
確かにあのときは妙に腹立たしくて、先生を問い詰めたような気がする。
先生はそれを覚えていて、用事を終えて慌てて自分の元へ来てくれたのだろう。
「もう図書室は閉まっちゃうし…お詫びは何が良い?」
わざわざ自分の我が儘をきいてくれる先生。
「じゃあ…お詫びしてもらおうかな」
先生のところまで近づいて、胸に左頬を寄せる。
スーツに染み込んだ、誰かのタバコの香りがした。
「先生、もう一度キスして下さい」
勇気がなくて背中に回せなかった両腕が、震えているのが自分でもよく解る。
肩に置かれた手が、いつもは温かいのに今日に限ってやたら冷たい。
息が漏れる音がして、引き離そうと肩に力が加えられる。
さっき職員室で振り払われた指の感覚が、フラッシュバックする。
また拒絶される前に、怖くなって自分から手を離した。
胸を押したらトンと軽い音がして、先生が後ろに下がる。スリッパの音が沈黙を破った。
「冗談ですよ…卒業式、楽しみにしています」 これが精一杯。
先生はどんな顔をしているのだろう。下を向いていて、解らない。
ねぇ、先生。
あたし、先生を振り向かせることなんて出来ませんでした。
想い出は綺麗なまま、宝石箱へ。
いつかきっと、先生を想っても泣かなくなるわ。
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