貴方が隣にいないと、何も始まらない。



act-1…Ayumi
「乙女ちっく戦争」





私は高校一年生のときに、生まれて初めて告白というものをして、見事に振られた。
二年経った今でも、あのときのことはよく覚えている。
忘れたくても、忘れられない。

だって、相手は二年間担任だったんだもの。

毎日のように顔を合わせていて、忘れられるはずがない。
三年目にしてやっとクラスが離れて、傷が癒えてきたところだ。
今では、貴重な高校三年間を何であの人に捧げてしまったのだろうと、少し後悔している。
自分が選んだ人なので好きになったのは後悔していないが、いかんせん相手が悪すぎた。
中学生のとき、「高校生なったら彼氏とラブラブになるんだ」なんて言っていた頃が懐かしい。
現実はそう甘くないことを、十六歳のときに知った。ちょっと大人になった。

私は報われない恋に身を焦がすほど、暇ではないのだ。
大学に入ったら素敵な彼氏を見つけようと、今は勉学のみに励んでいる哀しい受験生だ。
それでも時々、思い出すことがある。



「せんせーに恋愛感情なんて不毛よ」と言っていた同級生がいた。
今ではそう思う。でも反対に、そう思わない自分もいる。
ただ、好きになった人が先生だっただけなのに。
ただ、自分が生徒だっただけなのに。
もし自分たちが教師と生徒の関係じゃなくて、同級生だったら。
そうしたら、あの恋だって成就したかもしれない。

今でも少しだけ、そう思ってしまうのだ。
こう思ってしまうこと自体、まだ吹っ切れていない証拠なのかもしれないけれど。

あの頃は本気だった。
本気で好きだったし、熱心に伝えれば応えてくれると思っていた。
これが最初で最後の恋だとさえ信じていた。










「吉田さん」
職員室を出たところで、後ろから声をかけられた。聞き覚えのある声に、思わず笑みが零れた。
「哀ちゃん」
振り返ると、思った通りの人物。紅い髪がとてもよく似合う、小学生の頃からの友人だ。
「何だか久しぶりね」
「うん、本当。クラスが違うと、なかなか逢えないもんね」
彼女とは高校でも二年間同じクラスだったが、進路の関係で三年になったらクラスが離れた。
私立文系の私のクラスと、国立理系の彼女のクラスでは、渡り廊下を挿んで校舎まで違う。
こうやって校内で顔を合わせるのは、随分久しぶりだった。

「私、日直で日誌を届けにきたの。哀ちゃんは?」
「あたしは…担任に呼ばれて」
そこで「工藤先生」と名前を出さないところが、彼女の良いところだと瞬時に感じた。
私の告白劇を知っている彼女は、気を遣ってくれたのだ。

「工藤先生は、相変わらず?」
私は「もう何でもないよ」とアピールするために、わざと先生の名前を出した。
「…うん、相変わらず。いつもやる気があるんだかないんだか」
自分から工藤先生の話題を振ったのに驚いたのか、少し間があった。
「先生らしいね」
「…うん」
工藤先生の話題になるのは、彼女も心苦しいのだろうか。あまりお喋りではない彼女の口が、更に重たい。

「哀ちゃんは、やっぱり国立大に行くの?」
受験生らしく、受験の話を振ってみる。「そうね」と答えた彼女は、いつもの彼女で安心した。
「私ね、結構良い私大狙ってるんだー」
「そうなの?」
「私一人っ子だし、両親も好きなところに行って良いって。だから大学で目いっぱい勉強しようと思って」
「うん、良いと思う」
あまり笑わない彼女が微笑むのを見て、何だかこっちも嬉しくなる。
少し元気がないようだけど、きっと勉強疲れなのだろう。学園一の秀才に、期待する声は大きい。

「じゃあ…」と職員室前で別れた彼女の姿は、そのままガラス戸の中に消えていく。
向かった先に工藤先生がチラリと見えて、少しだけ胸が痛んだ。
あの子は今でも工藤先生の担当生徒。
私の担任の白馬先生も優しくて人気があるけれど、やはり私の一番は工藤先生だ。
あんなに良い先生には、きっとこの先巡り逢えないと思う。

受け持ちの生徒じゃなくたって、工藤先生は気さくに話してくれる。
今でもきっと話しかければ、笑顔で応えてくれるだろう。
工藤先生はそういう人だ。だから好きになったんだ。










「ねぇ、毛利先生。失恋に付ける薬はない?」
「そうねぇ…新しい恋のトキメキじゃないかしら」
養護教諭の毛利先生は、冗談も通じる良い先生だ。
体育の授業中に突き指したという生徒に湿布を貼りながら、にこにこ笑ってこちらの相談にも応えてくれる。
「でもやっぱり、今は勉強に専念するのが一番良いと思うわ」
「うん、私もそう思う」
事務椅子に深く腰掛けて、この間の模試の結果を思い出して私は大きく頷いた。

「へぇ…歩美ちゃん、失恋しちゃったの?」
湿布を貼ってもらっている相手は、やはり二年間クラスメイトだった黒羽快斗だ。
「へぇ…運動神経抜群の黒羽君も、突き指なんかしちゃうのね」
「ちょっとジャージ姿の哀ちゃんに見とれてて」
「まだ哀ちゃんのこと追いかけてるんだね」
学校中に知れ渡っている、もう三年越しの熱烈片思いだ。
どんなに邪険に扱われても決して諦めないその姿は、校内でもある意味大きな感動を生んでいる。

「哀ちゃんには、まるで相手にされていないんでしょう?」
「なかなかガードが固くて」
「でしょうね」
そういえば、あのポーカーフェイスの女の子の浮いた話は聞いたことがない。
「それでもまだ諦めきれないんだ?」
何だか少し、意地悪な気持ちになってくる。

「まだ望みはあると思っているから」
余裕の笑顔で、私の右ストレートは鮮やかにカウンターを喰らった。
「えっ?本当に?」
「期限は卒業式までだから。そこで全ての答えが出ると思う」
「…どういう意味?」
何か二人で賭けでもしているのだろうか。

「で、歩美ちゃんの失恋相手はうちの学校の人間?」
「私のことはどうでも良いのよ」
お喋りな快斗にだけは傷を抉られたくないと、慌てて身体を傾けて視線をずらす。
「良くないよ。もしかしたら、オレにも大いに関係あるかもしれないから」
「いや、絶対ないと思うよ」
どう転んだら、快斗の恋に工藤先生と関係があるのだろうか。

「哀ちゃん、好きな人がいるでしょう?だからオレ、振られたの」
「えっ…そうなの?」
そんな話は聞いたことがない。思わず事務椅子から立ちあがる。
何だか裏切られたような気がしたのと、急に立ち上がったのとで眩暈がした。

「歩美ちゃんには、言えなかったんじゃないかな」
快斗は「しまった」と少しバツが悪そうに、弁解するように口を歪めた。
てっきり彼女の好きな人を、私が知っていると思っていたのだろう。仲が良いのを彼は知っているから。
「…どうしてよ」
親友だと思っていたのに、そんなに言えない相手なのだろうか。
まさか不倫?と、体中の血が足元に落ちていくような感じを受ける。

「きっと、同じ人だったから」
そう言った快斗の声は、どこか違う国の言葉のように聞こえた。










「工藤先生っ…!」
哀のクラスに行く前に、肝心の本人に逢えたのはラッキーだったかもしれない。
「おう、久しぶり」と、先生は何もなかったかのように、やはり笑顔で応えてくれた。

「哀ちゃんも、工藤先生が好きだったの?」
「お前、聞く相手間違えてないか?」
思いっきり眉根を寄せて怪訝な顔をする先生は、そんな顔でも様になっていた。
「間違えていない…先生に聞いているの。哀ちゃんに何か言われた?」
「灰原に直接聞けば良いじゃないか。友達なんだろう?」
「そうだけど…」
思わず口ごもる。これを本人に聞いて良いことなのだろうかと、疑問が頭の中を巡る。

彼女は何で黙っていた?
知られたくなかったから。他でもなく、この私に。
今更突っ込んでどうするのだ。彼女だって、とっくに吹っ切れているかもしれないというのに。
自分だって、もう忘れようとしていたのに。

「先生は何て応えたの?」
「それは…」
「私のときみたいに、生徒はそういう対象じゃないって言ったの?」
私の必死の形相に、訳が解らないとでも言いたそうに先生は首を傾げている。
両肩に手を置かれて、目線を合わせられてやっと冷静になる。
下校時間になっていたので、周りに人がいなくて安堵した。

「先生…私、知らなかった」
自分のことで精一杯で、何もかも周りが見えなかったあの頃の自分。
「哀ちゃんが、先生のことを好きだったなんて」
「いくら仲が良い間柄だって、言えないことのひとつやふたつある。吉田だってそうだろう?」
それは暗に肯定しているように聞こえた。

「吉田が知らなかったことを悪く思っているのなら、それは灰原には言わない方が良い」
温かく大きな手で、頭をポンポンと二回撫でられた。
「お互い傷を抉りあったって、意味がないだろう?」

そう、何で今更こんな事実に気づくのか。
知らなかったら、良かったのに。知らなかったら、後悔していた。

快斗が言った「卒業式で全ての答えが出る」と言うのは、何を指しているのか解らない。
私はそれを今、知るべきではない。
きっと彼女から直接聞かされるだろう。
どんな答えが出ようとも、彼女は今度こそ伝えてくれると思う。
私はただそれを待っていれば良い。



「お前ら皆可愛いよ。大事な生徒だ」
出窓に軽く腰掛けて腕を組んだ先生は、微笑っていた。
橙色の夕暮れの光が眩しく、思わず目を細めた。


嫌いになったわけじゃない。今でも眩しくて大好きな先生。

それで良い。
無理に嫌いになる必要なんてない。
きっと後何年後かには「恩師」にまで繰り上がっていることだろう。

それで良い。
私はこの人から卒業する。




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