私は高校一年生のときに、生まれて初めて告白というものをして、見事に振られた。
二年経った今でも、あのときのことはよく覚えている。
忘れたくても、忘れられない。
だって、相手は二年間担任だったんだもの。
毎日のように顔を合わせていて、忘れられるはずがない。
三年目にしてやっとクラスが離れて、傷が癒えてきたところだ。
今では、貴重な高校三年間を何であの人に捧げてしまったのだろうと、少し後悔している。
自分が選んだ人なので好きになったのは後悔していないが、いかんせん相手が悪すぎた。
中学生のとき、「高校生なったら彼氏とラブラブになるんだ」なんて言っていた頃が懐かしい。
現実はそう甘くないことを、十六歳のときに知った。ちょっと大人になった。
私は報われない恋に身を焦がすほど、暇ではないのだ。
大学に入ったら素敵な彼氏を見つけようと、今は勉学のみに励んでいる哀しい受験生だ。
それでも時々、思い出すことがある。
「せんせーに恋愛感情なんて不毛よ」と言っていた同級生がいた。
今ではそう思う。でも反対に、そう思わない自分もいる。
ただ、好きになった人が先生だっただけなのに。
ただ、自分が生徒だっただけなのに。
もし自分たちが教師と生徒の関係じゃなくて、同級生だったら。
そうしたら、あの恋だって成就したかもしれない。
今でも少しだけ、そう思ってしまうのだ。
こう思ってしまうこと自体、まだ吹っ切れていない証拠なのかもしれないけれど。
あの頃は本気だった。
本気で好きだったし、熱心に伝えれば応えてくれると思っていた。
これが最初で最後の恋だとさえ信じていた。
「吉田さん」
職員室を出たところで、後ろから声をかけられた。聞き覚えのある声に、思わず笑みが零れた。
「哀ちゃん」
振り返ると、思った通りの人物。紅い髪がとてもよく似合う、小学生の頃からの友人だ。
「何だか久しぶりね」
「うん、本当。クラスが違うと、なかなか逢えないもんね」
彼女とは高校でも二年間同じクラスだったが、進路の関係で三年になったらクラスが離れた。
私立文系の私のクラスと、国立理系の彼女のクラスでは、渡り廊下を挿んで校舎まで違う。
こうやって校内で顔を合わせるのは、随分久しぶりだった。
「私、日直で日誌を届けにきたの。哀ちゃんは?」
「あたしは…担任に呼ばれて」
そこで「工藤先生」と名前を出さないところが、彼女の良いところだと瞬時に感じた。
私の告白劇を知っている彼女は、気を遣ってくれたのだ。
「工藤先生は、相変わらず?」
私は「もう何でもないよ」とアピールするために、わざと先生の名前を出した。
「…うん、相変わらず。いつもやる気があるんだかないんだか」
自分から工藤先生の話題を振ったのに驚いたのか、少し間があった。
「先生らしいね」
「…うん」
工藤先生の話題になるのは、彼女も心苦しいのだろうか。あまりお喋りではない彼女の口が、更に重たい。
「哀ちゃんは、やっぱり国立大に行くの?」
受験生らしく、受験の話を振ってみる。「そうね」と答えた彼女は、いつもの彼女で安心した。
「私ね、結構良い私大狙ってるんだー」
「そうなの?」
「私一人っ子だし、両親も好きなところに行って良いって。だから大学で目いっぱい勉強しようと思って」
「うん、良いと思う」
あまり笑わない彼女が微笑むのを見て、何だかこっちも嬉しくなる。
少し元気がないようだけど、きっと勉強疲れなのだろう。学園一の秀才に、期待する声は大きい。
「じゃあ…」と職員室前で別れた彼女の姿は、そのままガラス戸の中に消えていく。
向かった先に工藤先生がチラリと見えて、少しだけ胸が痛んだ。
あの子は今でも工藤先生の担当生徒。
私の担任の白馬先生も優しくて人気があるけれど、やはり私の一番は工藤先生だ。
あんなに良い先生には、きっとこの先巡り逢えないと思う。
受け持ちの生徒じゃなくたって、工藤先生は気さくに話してくれる。
今でもきっと話しかければ、笑顔で応えてくれるだろう。
工藤先生はそういう人だ。だから好きになったんだ。
「ねぇ、毛利先生。失恋に付ける薬はない?」
「そうねぇ…新しい恋のトキメキじゃないかしら」
養護教諭の毛利先生は、冗談も通じる良い先生だ。
体育の授業中に突き指したという生徒に湿布を貼りながら、にこにこ笑ってこちらの相談にも応えてくれる。
「でもやっぱり、今は勉強に専念するのが一番良いと思うわ」
「うん、私もそう思う」
事務椅子に深く腰掛けて、この間の模試の結果を思い出して私は大きく頷いた。
「へぇ…歩美ちゃん、失恋しちゃったの?」
湿布を貼ってもらっている相手は、やはり二年間クラスメイトだった黒羽快斗だ。
「へぇ…運動神経抜群の黒羽君も、突き指なんかしちゃうのね」
「ちょっとジャージ姿の哀ちゃんに見とれてて」
「まだ哀ちゃんのこと追いかけてるんだね」
学校中に知れ渡っている、もう三年越しの熱烈片思いだ。
どんなに邪険に扱われても決して諦めないその姿は、校内でもある意味大きな感動を生んでいる。
「哀ちゃんには、まるで相手にされていないんでしょう?」
「なかなかガードが固くて」
「でしょうね」
そういえば、あのポーカーフェイスの女の子の浮いた話は聞いたことがない。
「それでもまだ諦めきれないんだ?」
何だか少し、意地悪な気持ちになってくる。
「まだ望みはあると思っているから」
余裕の笑顔で、私の右ストレートは鮮やかにカウンターを喰らった。
「えっ?本当に?」
「期限は卒業式までだから。そこで全ての答えが出ると思う」
「…どういう意味?」
何か二人で賭けでもしているのだろうか。
「で、歩美ちゃんの失恋相手はうちの学校の人間?」
「私のことはどうでも良いのよ」
お喋りな快斗にだけは傷を抉られたくないと、慌てて身体を傾けて視線をずらす。
「良くないよ。もしかしたら、オレにも大いに関係あるかもしれないから」
「いや、絶対ないと思うよ」
どう転んだら、快斗の恋に工藤先生と関係があるのだろうか。
「哀ちゃん、好きな人がいるでしょう?だからオレ、振られたの」
「えっ…そうなの?」
そんな話は聞いたことがない。思わず事務椅子から立ちあがる。
何だか裏切られたような気がしたのと、急に立ち上がったのとで眩暈がした。
「歩美ちゃんには、言えなかったんじゃないかな」
快斗は「しまった」と少しバツが悪そうに、弁解するように口を歪めた。
てっきり彼女の好きな人を、私が知っていると思っていたのだろう。仲が良いのを彼は知っているから。
「…どうしてよ」
親友だと思っていたのに、そんなに言えない相手なのだろうか。
まさか不倫?と、体中の血が足元に落ちていくような感じを受ける。
「きっと、同じ人だったから」
そう言った快斗の声は、どこか違う国の言葉のように聞こえた。
「工藤先生っ…!」
哀のクラスに行く前に、肝心の本人に逢えたのはラッキーだったかもしれない。
「おう、久しぶり」と、先生は何もなかったかのように、やはり笑顔で応えてくれた。
「哀ちゃんも、工藤先生が好きだったの?」
「お前、聞く相手間違えてないか?」
思いっきり眉根を寄せて怪訝な顔をする先生は、そんな顔でも様になっていた。
「間違えていない…先生に聞いているの。哀ちゃんに何か言われた?」
「灰原に直接聞けば良いじゃないか。友達なんだろう?」
「そうだけど…」
思わず口ごもる。これを本人に聞いて良いことなのだろうかと、疑問が頭の中を巡る。
彼女は何で黙っていた?
知られたくなかったから。他でもなく、この私に。
今更突っ込んでどうするのだ。彼女だって、とっくに吹っ切れているかもしれないというのに。
自分だって、もう忘れようとしていたのに。
「先生は何て応えたの?」
「それは…」
「私のときみたいに、生徒はそういう対象じゃないって言ったの?」
私の必死の形相に、訳が解らないとでも言いたそうに先生は首を傾げている。
両肩に手を置かれて、目線を合わせられてやっと冷静になる。
下校時間になっていたので、周りに人がいなくて安堵した。
「先生…私、知らなかった」
自分のことで精一杯で、何もかも周りが見えなかったあの頃の自分。
「哀ちゃんが、先生のことを好きだったなんて」
「いくら仲が良い間柄だって、言えないことのひとつやふたつある。吉田だってそうだろう?」
それは暗に肯定しているように聞こえた。
「吉田が知らなかったことを悪く思っているのなら、それは灰原には言わない方が良い」
温かく大きな手で、頭をポンポンと二回撫でられた。
「お互い傷を抉りあったって、意味がないだろう?」
そう、何で今更こんな事実に気づくのか。
知らなかったら、良かったのに。知らなかったら、後悔していた。
快斗が言った「卒業式で全ての答えが出る」と言うのは、何を指しているのか解らない。
私はそれを今、知るべきではない。
きっと彼女から直接聞かされるだろう。
どんな答えが出ようとも、彼女は今度こそ伝えてくれると思う。
私はただそれを待っていれば良い。
「お前ら皆可愛いよ。大事な生徒だ」
出窓に軽く腰掛けて腕を組んだ先生は、微笑っていた。
橙色の夕暮れの光が眩しく、思わず目を細めた。
嫌いになったわけじゃない。今でも眩しくて大好きな先生。
それで良い。
無理に嫌いになる必要なんてない。
きっと後何年後かには「恩師」にまで繰り上がっていることだろう。
それで良い。
私はこの人から卒業する。
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