教え子が三年生にもなると、担任教師は何かと厄介だ。
大学進学すると言っていたヤツが、急に就職しようかなぁと言い出す。
英語が苦手な男子が、突然留学しようかなぁと言い出す。
学園一目立ちたがりの女子が、いきなり芸能界へ入ろうかなぁと言い出す。
そういう困ったちゃんを、放課後の進路相談室に呼び出して熱心に話を聞いてやるのも、教師の仕事だ。
全く、教師も楽なもんじゃない。
「きりーつ、れー、ちゃくせーき」
ドアを開けると、学級委員がお決まりの言葉で出迎える。
「おはようございまーす」
黒い出席簿を教卓に置き、自分でも思わず眠たそうな声が出てしまったと後悔した。
視線を感じて学級委員に目を向けると、一番前に座った紅い髪の優等生に睨まれた。
「休みは…また黒羽か」
教室をぐるりと見渡し、ペンのキャップを口に咥え、出席簿に書き込む。
何の因果か、紅い髪の優等生とサボり常習犯コンビは、三年間自分の受け持ちとなった。
「灰原、何か聞いてないか?」
「何でも学級委員に聞かないで下さい。黒羽君の行動、全てを理解しているわけではありません」
やけに棘のある言葉が返ってくる。身に覚えがあるので、何も言い返せない。
「…じゃあ、お前ら今日も頑張れよ」
逃げるようにHRを終わらせ、教室を出て行く。
「何の弁解もないんですか?」
後ろから矢のような鋭い声に射抜かれる。逃げられると思ったら、大間違い。
そっと後ろを振り返ると、紅い髪の優等生が腕を組んで睨んでいる。こっちが逃げないと察したのか、近づいてきた。
「いや、昨日は職員会議が長引いて…」
「それでも、あたしはずっと待っていました」
「それはそれは…謝ります」
思わず敬語になってしまう。
どうもこの教え子には頭が上がらない。苦手なわけではないが、こちらが恐縮してしまうのだ。
何しろ、自分には前科がある。
彼女がそれを利用しているのかは解らないが、効果は覿面だ。
今でも自分は彼女を校内で見かけるたびに、身体の中で「気をつけろ!」と救急サイレンが鳴る。
それに気づいているのか、組んでいた腕を解いて彼女は微笑った。
「先生、あたしもうすぐ卒業しますよ。あの約束、覚えてますね?」
あの約束とは、彼女が一年生のときの話まで遡る。
自分がとってしまったある行動に対してのお詫びに、デートをしてくれとせがまれた。
対して、自分は「学年末考査で古文が満点だったら考える」と迂闊にも約束してしまった。
彼女は宣言通り、何の問題もなく一点の間違いを犯すことなく、古文で満点を取ってきやがった。
担任&担当教師としては、流石学園一の優等生と褒め称えるべきだが、今回ばかりは勝手が違う。
放課後の進路相談室で、答案用紙を片手に勝ち誇ったような笑顔の彼女を、一生忘れないと思う。
出来ない約束なんて、するもんじゃない。
それでも、春休みに誰にも内緒で二人きりで出かけてしまったのは、罪悪感からだった。
教師としての背徳感など忘れ、これをすれば自分は許されると思ったから。
「水族館に行きたい」と言う彼女の薄茶色の瞳に、申し訳なく思いながら「これが最後」だと思い込んでいた。
ちなみに何故水族館かと言うと、意地悪な同級生に邪魔されないからだそうだ。よく解らない。
その水族館で、彼女は恐るべき台詞を口にした。
「先生は、あたしが受け持ちの生徒だから付き合ってくれないの?」
頭の上を魚たちが優雅に泳ぐ海底トンネルをくぐりながら、「そうだよ」と短く応えた。
「だったら、あたしが卒業したら良いのね?」
「えっ…?」
マンボウが不思議そうに、こちらを眺めていた。
「先生、あたしに二年、猶予を下さい」
「猶予?」
「この二年間で、先生を振り向かせてみせます。そうしたら、卒業式に返事を下さい」
「いや、それは…」
「猶予を下さいって言いましたよね?先生を許す猶予期間です」
執行猶予二年。それが自分に下された判決だ。
開いた口が塞がらないというのは、こういうことを言うのだろう。大きな口を開けている鮫が、視界に映った。
「約束ですよ?」
ペンギンの水槽の前で、彼女の白い小さな手が自分の手と絡められた。
それ以来、ずっとこんな調子だ。
彼女はまるで大きな盾を持ったかのように、何の恐れも躊躇いもなく毎日を過ごしていた。
執行猶予中の自分は、その「約束」という名の盾の前に、余りに無力だったが。
彼女は授業中や周りに人の目があるときは、以前と変わらずあくまで「教師と生徒」、優等生として振る舞っていた。
「先生に迷惑がかかるから」と、あの水族館のデート以来、学校外で逢うことは強要しなかった。
それどころか彼女の「お願い」は、ほんのささやかなことだった。
「学校内で変に避けないで欲しい」とか
「放課後の図書室で歩美と共に、勉強を教えて欲しい」とか
「たまには休み時間に、生徒たちとのお喋りに参加して欲しい」とか、その程度のアプローチだった。
「振り向かせてやる」などと言われ、もっと凄いことを強要されるのではないかと考えていたが、これには驚いた。
そんな律儀な彼女を、少し好ましく思っていたのは事実だ。
実際彼女は学級委員と文芸部を兼業する、勤勉で真面目な生徒で、紅い髪と白い肌のコントラストが美しかった。
もし自分が同級生だったら、ほのかに憧れていただろうとぼんやり考えていた。
そんなやり取りが二年間続いた。
攻勢は二年前から変わっていない。膠着状態が続いていると言った方が良いか。
今日彼女が朝から怒っていたのは、いつもの習慣が臨時の職員会議により乱れたからだ。
毎週水曜日はどちらかが言い出したわけではないが、一緒に図書室で読書をしていた。
もちろん周りには他の生徒もいる。ただ並んで座って本を読むだけの習慣だ。
でもこれは約束したわけではない。だからこんなに責められる資格はないと思うのだが。
そんなことで腹を立てている彼女を、可愛らしいと思う。
一方で、「こんなことじゃだめだ」と理性的な自分が諌めている。
教師と生徒が恋愛? ―冗談じゃない。自分はまだ職を失いたくない。
「先生、オレ哀ちゃんのことが好きなんですよ」
「…知ってるよ」
そういえばこんなヤツもいたと、今更ながら思い出す。
「先生はオトナですから、生徒にやましい気持ちなんて持ってませんよね?」
「有り得ないよ」
そう、そんなことは有り得ない。
「卒業までに、落としてみせますよ」なんて粋がっているサボリ魔だって、可愛い生徒だ。
皆等しく、大事な生徒。それ以上の感情など。
「まあ、せいぜい卒業式まで頑張れよ」
『卒業式に返事を下さい』
卒業して教師と生徒の関係じゃなくなったら、良いってものでもない。
そんなの解っている。解りきっている。
全く、教師も楽なもんじゃない。
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