自分自身に卒業すれば、
本当の自分に出逢えると信じていた。
どうか忘れないで。
今、君にさよなら。
学校へ行こう!!卒業スペシャル
さらば青春の日々 【後編】
泣かない。
今日は絶対泣かない。
朝起きたときに、そう決心していたのに。
クラスで後輩に、胸にコサージュを付けて貰いながら、哀はこっそりため息を吐いた。
教室の黒板には、後輩が描いてくれたのだろうか、
「卒業おめでとうございます」という言葉と、様々な色のチョークで描かれたらくがきたち。
最後の教室を綺麗に色づけてくれていた。
本当に今日が最後。
人生の先輩たちから教えを請うのも。
クラスメイトと秘密のおしゃべりをするのも。
この教室で彼を見つめるのも。
きっとこれが最後だから。
「すみません、遅くて」
緊張しているのか、コサージュの針がなかなか収まらない。
やっと収まり、生徒会のメンバーでもあった後輩の男の子が顔を上げて笑った。
「卒業おめでとうございます」
「ありがとう」
教室の隅に目をやると、彼は小宮山かなえから花を付けて貰っていた。
様子に気づいて隣の歩美が「どうかした?」と視線で問う。
「・・・・・・・・不覚にも泣きそうだわ」
水玉のハンカチをしっかり握り締めた彼女は笑って、
「仕方ないよ、卒業式だもの」
「・・・・・・・そうね」
震える膝に活を入れて、答辞の紙をセーラー服の胸元に差し込む。
「B組入場です」の声に、頬を二回パンパンと叩いて気合を入れる。
ざわめく人込みに合わせて、体育館へ歩き出す。
●
「江戸川コナン」
あまり相性が良いとは言えなかった担任の涙声に、
「はい」と短く返事をして、壇上の真ん中まで歩いていく。
練習通りに、先に左手で受け取り右手を添えてパタンと閉じる。
脇に抱えてくるりと回れ右。
壇上から保護者席を見ると、ビデオを抱えた父さんと母さんの姿が見えた。
隣には既に号泣もいいところの博士も居る。
そんな三人に苦笑してみせて
舞台の真ん中に設置された階段を静かに下りて、遠回りして自分の席に戻る。
「灰原哀」
まさか日本で中学の卒業式にまた出ることになるなんて、思ってもみなかった。
担任の自分を呼ぶ声に「はい」と柔らかく返事をして、歩き出す。
コツコツと体育館シューズの音だけが、しんと静まった会場に木霊した。
紅い髪が目立つ前生徒会長は、卒業生・在校生・保護者の視線を一身に受けながら
誰よりも優雅に卒業証書を受け取り、プリーツスカートの裾を気にしながら上品に階段を下りた。
どこからか溜め息が漏れるほど、それはそれは美しかった。
日本の式典はやたら偉い人の話が長い。
日本人の九割はそんな風に感じているだろう。
歌い慣れた校歌を高杉先生の伴奏で歌ったあと、
学校長の非常にあっさり簡潔した式辞に続き、(皆笑っていた)
PTA会長の祝辞、何やら偉い人たちの祝辞が永延と続く。
誰もまだ泣く様子は見られず、どちらかというと長い話に退屈をしていた。
それでも私語は慎み、表面上はきちんと話を聞いている。
その後記念品贈呈と授与が行われ、いよいよ式は終盤に差し掛かった。
「送辞。小宮山かなえ」
「はい」
高く澄んだ声で返事をし、現生徒会長である小宮山かなえが壇上に上がる。
「送辞」
震える声で、読み上げていく。
「春の息吹に、嬉しさを感じる季節となりました。卒業生の皆さん、御卒業おめでとうございます」
しんと静まり返る中、かなえの声だけがよく響く。
「卒業とはひとつのことをやり遂げることを意味します。そして開始という言葉も意味するのです。
何かを終えて、そして新しいスタートを切る。決して別れではありません。
今日を機に、新しい人生を歩む皆さんに、在校生一同、心よりお祝い申し上げます」
少し緊張しているみたいだが、すらすらと言葉が続く。
今年起きた出来事や、蛍雪という故事を例に引き出して話を進める。
「先輩方と過ごしてきたこの二年間。
先輩はいつも明るく私たちと接して下さり、困った時は手を差し伸べて下さいました。
皆さんと過ごした日々は眩しくて楽しすぎて、あっという間に過ぎてしまいました」
ふいに声が止む。
彼女は俯き、静かに涙を零した。
突然の涙に一同息を呑み、成り行きを見守る。
「・・・・・卒業生の皆さんは、挑戦することを忘れず・・・・いっそう魅力溢れる、人となって下さい。
私たち在校生も・・・・・・・・皆さんが残して、下さった足跡に・・・恥じないように、
日々精進していきたいと思います。・・・・どうか任せて・・下さい」
「別離は人を強くする、と言われています・・・・今日のことを・・バネにして、世界へ羽ばたいて下さい」
嗚咽を堪えながら、
「在校生代表・・・・・小宮山かなえ」
彼女には暖かい拍手が送られ、
それは彼女が自分の席につくまで鳴り止まなかった。
「答辞。灰原哀」
副校長の声に姿勢を正して返事をし、立ち上がって壇上へと上がる。
一礼してセーラー服の胸元から答辞が書かれた紙を引っ張り出す。
するすると器用に広げて、マイクのスイッチを左手で入れた。
マイクから離れてふうと息を吐いて、マイクに向き直る。
「答辞」
自分の声がマイクを通して聞こえる。
相当緊張しているのが、自分でもよく解った。
「校門の前に溢れている早咲きの桜が、本格的な春の訪れを告げました」
ここで一呼吸。
「しかし世界には春の訪れがまだまだ遠い国が溢れていることも事実です。
混沌とした世界に生きる私たちに必要なこと、出来ることは何なのでしょうか。
その考えのヒントを、私はこの帝丹中学で見つけることが出来たような気がします」
皆よりちょっと高いこの場所から周りを見渡してみると、
様々な人の、いろいろな表情がよく見える。
優しくしてくれた女の子。よくノートを貸した男の子。
ちょっとした言い争いをしてしまった子。いつも笑顔を振り撒いてくれた子。
生徒会でお世話になった後輩たち。そして愛すべきクラスメイトたち。
今日はそんな全ての人たちにお別れを言わなくてはいけない。
「三年前の春に、私たちは此処に居る友達に出逢いました。
入学当初はどこかぎこちなく笑みを浮かべて拙い会話をしていた私たちですが、
今日はこうして大切な友達との別れを惜しんでいます。
今振り返ってみると、様々なことが思い出されます」
こうして話は三年間の思い出に。
皆で力を合わせた体育祭。
大変だった分、楽しかった文化祭。
止め処なく溢れる思い出。
いくつかの悪戯な偶然により、出逢った自分たち。
ユニークな先生方との出逢い。
ちょっぴり厳しい先生。
いつも楽しい授業で笑わせてくれた先生。
たくさんパワーをくれた先生。
教科書には書いていないことを教えてくれた。
いつも暖かい目で見守ってくれた家族。
支えてくれて、時には厳しくも叱ってくれた家族の存在はかけがえのないものだった。
そして何よりも、此処で出逢った友人たち。
いつも辛い時には支え合い、励まし合っていた。
時には意見が対立して、喧嘩をしたりもした。
他愛もないことで一緒に笑って泣いた。
素晴らしい友達と過ごした輝かしい日々。
自分たち一人一人が多くの人に支えられ、大切にされていることを忘れない。
もっと強くこの気持ちを持てば、きっと自分たちにも何か出来る筈。
「今、私たちは旅立ちます。一人一人の責任ある行動のひとつひとつが種となり、
やがて世界へと羽ばたく時、決して同じものがない色とりどりの花となるように。
それが春の暖かな風になることを、冬は必ず春になることを信じて」
泣くつもりなんかなかった。
今日は絶対泣かないって決めたのに。
小宮山かなえの涙を見たときから、本当はもう我慢が出来なかった。
それでも泣かずに答辞を読みきった自分を、誉めてあげたいくらい。
読みきってふと気が緩んだら、もう駄目だった。
涙が止め処なく溢れてくる。
何で泣いているのかもよく解らなかった。
きっと卒業ってそういうものなのだろう。
「頑張れー」という言葉が生徒の方から上がる。
何を頑張ればいいのか解らなかったが、
軽く頷いて、左手の指先で軽く涙を拭く。
「卒業生代表、灰原哀」
最後の〆の言葉は涙声になってしまったが、一斉に拍手喝采が起こる。
彼女はうさぎみたいに紅く目を染めたまま、それに笑顔で応じ、
持ってきた通りに紙を折って、そのままそこに残しておいて、
自分の席には戻らず、グランドピアノの前に置かれた小さな椅子に腰掛けた。
拍手はなかなか止まず、卒業式会場である体育館には、暫くその余韻が残っていた。
誰もが彼女の答辞とその綺麗な涙に、涙を流さずにはいられなかった。
「卒業の歌」
その声に、コナンは立ち上がる。
ゆっくりと静かに壇上に上がり一呼吸。
ピアノの前に座った彼女に視線をやると、軽く頷いてくれた。
もう一呼吸おいて、腕を上げる。
「仰げば尊し、我が師の恩」
哀のピアノが柔らかい音色を奏でる中、
コナンの指揮に合わせて、卒業生皆が歌う。
指揮者もなかなかいいものかもしれない。
●
在校生が「蛍の光」を歌って見送ってくれる中、卒業生は目を腫らして体育館を後にした。
式典が終わり、校門前では人がごった返している。
先輩に花や色紙を渡そうとしている後輩たち。
憧れの先輩の写真を撮ろうと、待ち構えている女の子たち。
そして本日の主役たち。
花を受け取ったり、写真に応じたり、友達と写真を撮ったり。
実に騒がしくも、いつの時代にもある卒業の風景である。
そんな喧騒から少し離れたところで、赤い目をしたひとみにコナンは声をかけられた。
「何か記念にくれない?」
都内の私立の高校に合格が決まった彼女とは、もうあまり会う機会がないだろう。
そう思って「いいよ」と返事をして、第三ボタンを引きちぎって差し出した。
「あら?私は三番目ってわけ?」
「ぅえっ?!いや、そういう意味じゃなくて」
彼女の意地悪い視線に、戸惑う。
「解ってるわ・・・・・・ありがとう」
「江戸川先輩」
騒ぎの中に飛び込むと、一番最初に小宮山かなえに声をかけられた。
「送辞、すごく良かった」
お世辞じゃなくて、本当にそう思うから。
「泣いちゃって・・・・・ちょっと恥ずかしかったです」
大きな黒目が印象的な目を腫らして、彼女はちょっぴり舌を出して微笑んだ。
「御卒業おめでとうございます・・・・・・私、先輩からちゃんと卒業しますから」
今までに見たこともないくらいの、眩しい笑顔であった。
「・・・・・・・うん」
一際大きな花束を受け取って、彼女と軽く握手を交わして別れた。
その後サッカー部の後輩から何故かサイン攻めにあった。
「また高校でお逢いしましょう」
と今のキャプテンからありがたい言葉を貰った。
マネージャーの女の子から花束と色紙を受け取って、振り返ると歩美の姿。
「・・・・・・・・・コナン君、ボタンくれないかな?」
涙でくしゃくしゃになった顔を、更にくしゃくしゃにして彼女は訊ねた。
いくら鈍い自分でも、ボタンの意味を知らないわけではなかった。
だから、彼女の願いに応えられないことも分かっていた。
彼女の気持ちに気づかなかったわけじゃない。
気づいていたのに、長い間気づかないフリをしていた。
いつも真っ直ぐな彼女から逃げていた。
学ランに並んだボタンの内、一番目のボタンを引きちぎって、小学校からの友人に渡す。
これが長かった追いかけっこの応え。
にっこり微笑って、
「一番の友達に」
「江戸川君」
いつもこの声で、このトーンで呼ばれていた。
白い頬よりも紅い髪よりも、自分を呼ぶこの声が好きだった。
何度も聞いたこの声に呼ばれて振り返る。
「・・・・・・何か書いて」
差し出された卒業アルバム。
たくさんメッセージが書かれた中に、わざとらしく空いた真ん中のスペース。
「OK」
自分のために空けてくれた彼女に感謝を込めて。
可愛らしい文字が並ぶ中、自分のごつい文字が加えられていく。
ただ一言、「好きだ」と。
書き終えると、第二ボタンを引きちぎって、アルバムとともに彼女に渡した。
「卒業おめでとう」
「ありがとう・・・・・お互いにね」
書かれた文字とボタンの意味に気づいて目を丸くしたが、
彼女はアルバムを胸に抱いて目を閉じて一呼吸し、くるりと背を向けて歩き出した。
その潔さが余りにも彼女らしくて、振られた筈が思わず笑ってしまった。
彼女は一度も振り返らずにぐんぐんと校門に向かっていく。
自分とは違う方向へ。
こうして、僕らは別々の道を歩んでいく。
薄紅色の桜が季節外れの雪のように舞う中、
その小さな大人びた背を、ずっとずっと眺めていた。