今をいきる
「ほら、この写真の先輩達は輝いている…顔に吹き出るニキビ、そして汗のにおい
だが、彼らがこういっている様に聞こえないか?カーペ・ディエム…今を生きよ、と…。」
キーティング先生は学校の廊下に飾られたトロフィーや賞状、写真の入った棚を生徒に見せながら
小声でこう言ったのだ。
イギリスを舞台に戒律の厳しい全寮制の学校にある先生がやってきた。
親から無理矢理勉強の為だけに学校に入れさせられた生徒達は何の目標も夢もなくただ勉強するだけだった。
そこへやってきたのは英語の教師(日本で言う国語)の先生だった。
その学校の卒業生である新任のキーティング先生は、破天荒な授業を繰り広げる。
詩を表で表す教科書は破り捨て、国語の授業でラグビーをしたり、机の上に生徒を立たせて叫ばせたりする。
しかし、それには今をいきる(カーペ・ディエム)の意味が込められている行動だった。
そして生徒達は先生に興味を抱き、先生の過去を知ることになる。
死せる詩人の会という詩を歌いあう会を行っていたと突き止める。
生徒達は先生の真似をし、学校の外の洞窟で死せる詩人の会を復活させる。
ヘンリー・デビッド・ソローの詩から始まる会により、生徒達は次第に今をいきることを見いだしていく。
ある者は恋に生き、ある者は夢を追いかける。生徒達は輝き始めるのだ。
だが、その先にはある悲劇も隠されていた。
最後は涙なくしては観ることができない映画である。
キーティング先生の破天荒な授業に注目!
教科書を破く・・・
詩という感性によって作られるものを表にしてしまおうと考えている作者へ対する強烈な批判の気持ちが込められている。
教壇の上に立つ・・・
いつも見ている視線とは違う。生徒達に目線を変えて物事を見ることの大切さを学ばせる。
こういった行為は映画の要所でこういうことだったのかということにいくつか気づかされる。
生徒達が作り上げていく詩の数々。
授業において、詩を作ると言うことも重要な意味をもたらす。
ただの宿題で嫌がりながら作っていたが、純粋に詩を作る楽しさや喜びに徐々に生徒が目覚め、
個性的で感情豊かな詩が作り上げられていく。