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200X年1月23日 ノムヒョン韓国前大統領の問題提起

「政治家にはならないで!」

                  ノムヒョン前韓国大統領

このせりふは、私が近頃、人々に会うとよく言う言葉です。冗談ではなく、真面目にいう言葉です。政治に取り組んで得られるものに比べて、失わなければならないことがあまりにも大きいからです。政治家になる目的が自分の権力や名声といった欲望のためなら、ある程度は、成功を勝ち得ることもできるでしょう。しかし、そうした成功のためにですら、注がなければならない努力と、甘受しなければならない負担や苦痛を思えば、権力と名声なども、実質的な利益がなく、たとえあっても、とても短くうつろいやすい物なのです。

地域のため、組織のため、そして歴史のために、価値のある何かを成そうと政治に跳びこんだ人なら、気の遠くなるような長い時間の経過の末に、自分が成し遂げた結果が思ったより小さいものであったことがわかるようになるでしょう。政治の世界で、死に物狂いで争い、相手を崩したり、勢力を積み上げたりしながら長い年月を駆け抜けて来ましたが、達成されたものは微かで、明確に残っていることは失敗の記録だけです。私たちが追い求めた目標は、元のまま、ずっと遠くにとどまっているだけです。私はいつか、この失敗の話を文書として整理するつもりです。

ところで、政治を志す人は、すべてのものを政治に捧げなければなりません。政治に何を捧げなければならないかを考えるより、自分が持っているものの中で政治に捧げられなかったものが何かを考えてみたらいい。そうするとそんなものは、何もないということが分かるでしょう。

その中でも私生活、特に家族の私生活を保護することができないことは、致命的な苦痛です。しかし、この位までは自らの選択だからと、我慢しなければならないでしょう。

問題は、政治家が行く道には、当初考えてもみなかった、そして自分では手におえない難関と負担が待ち構えていることです。まさに「嘘の泥沼」、「政治資金の泥沼」、「私生活暴露の泥沼」、「田圃のどろんこの中で犬同士が闘うような泥沼」...こんな泥沼を体験することになります。特別に有利な条件に恵まれた政治家以外は、この道を回避しにくいのです。多くの人々が結局はこの泥沼にはまって、政治生命を失います。生き残った人も、多くは深い傷を受けた人です。政治の世界から無事に歩いて出られた人も、他人の非難、法的追訴の危険、良心の呵責..こんな危険と負担を抱いて暮らさなければなりません。そして、ほとんどの人々は結局、貧しく、さびしい老後となります。

ちょっと説明が必要でしょう。まず「嘘の泥沼」です。

本質的に嘘が好きな政治家は多いわけではありません。政治家も、初めは嘘をつかないように努力して、有権者や選挙参謀と争う人もいるでしょう。一方では相手の嘘、根拠ない報道、噂に傷ついてしまい、結局、真実を明らかにすることなど無駄だという事実が分かるようになり、当初の素朴な感覚が鈍くなります。故意に嘘をつかなくても、後で見れば嘘になっている場合も多いです。そして、徐々に、嘘をつかなくては政治ができないという事実を悟るようになって、最後には遂に嘘に慣れてしまいます。人々は、政治家をネタに笑い話を作ったり、政治家をあざ笑って楽しみ、それで金儲けまでします。しかし、それ位なら十分あり得ることです。 問題は、人々がただの冗談を楽しむのではなく、実際そうした誇張された話を信じ、政治家に対して本当に怒り、軽蔑していることです。いまや、政治家の良心も人格も地に堕ちてしまいました。しかし、政治家の方は、それをどうする方法もないのです。

次に「お金の泥沼」です。金権政治は、改善されていると言われています。しかし、それでも政治にお金が不要なわけではないのです。一方、政治家がお金を調逹する方法は限られています。以前に比べれば後援会制度がある程度、整備されていますが、 地域のために働く議員や、熱心に政治活動に取り組む議員には、政治資金はまったく不足しています。まして現職でない、バッチのない政治家の事情は、さんさんたる状況でしょう。たまに、政治家はどうやって暮らしているのか? 税金はいくら納めたか等の質問でも受けるなら、皆さんまことに苦しい立場に追い込まれます。バッチのない政治家は、生活を繰り合わせることもできません。だからと言って、お金儲けをする方法もありません。国会議員には年金制度もないです。結局、老後対策すらないです。バッチのない政治家はもう言うまでもありません。もちろんお金持ちとかが後援者として付いている幸運な政治家には、こんな話は該当しないでしょう。しかし、そんな人が多くいますか? また、そんなお金に余裕がある人だけが政治をするような国政が、果してよい政治になるのかも、よく考えて見なければならない問題です。

 

「私生活の暴露」も深刻です。政治家には私生活がないのです。一般の人々にはプライバシーである事も政治家にはそれが保障されないのです。それは家族に対しても同じです。行動の自由がないのです。演劇を見に行く、ゴルフをする事すら、世の中の雰囲気とマスコミの機嫌を伺わなければなりません。食事する席で冗談をむやみに言えば、かならず大きな問題が起こります。言っていることが間違いではなくても、世間では間違いということになります。政治家を狙い撃つ方法はいつも用意されているのです。公人として社会の検証を受けることは、当然ですが、当事者としては、不幸な事に違いないです。なおかつ、我が国では、公共の利益と私生活保護の限界がとても曖昧で、非常に苦しいです。

 

「泥田闘狗」(田圃のドロンコの中で犬同士が闘う)という言葉をご存知でしょうか。政治家たちはどうしてそれほどまでに争うか?こんな質問をよく受けます。しかし、「デモクラシーの政治構造」が、そもそも政治家同士が争うようになっているから争うのです。政治をする人々が党をつくり、お互いに争わなかったらデモクラシー政治は崩れます。程度の問題であるだけです。独裁時代には与・野党の闘争はまるで戦争でした。生活は監視され、裏で調査され、罪を着せられて監獄に行かされ、さらには、子どもたちが働く職場にすら影響がありました。野党は政治活動どころか、食っていくことさえも大変でした。だから政治は、生き残りをかけた戦争であるということですね。たしかに、デモクラシーの時代になっては、戦争はゲームに変わりました。敗者でも政界に残り、また挑戦することができるようになったのです。しかし、闘争は闘争です。デモクラシーと闘争がいつもルールに基づくものとはかぎりません。

さらに、政争を戦争にしたような、かつての敵対的政治文化の伝統が残っていて、社会的対立と葛藤が大きい国では、自然と闘争が荒れて、敗者に対する攻撃も苛酷になるものと決まっています。悪口、暴力闘争、嘘、デマ、裏調査などの悪習が残っている理由です。結局こんな政治闘争を争う政治家たちは、自分たちも追い詰められ、国民からはいつも悪口を言われる不幸な境遇になるしかないです。

 

「孤独と貧乏」の行く末。ちょっと漠然とした予想です。そんな悲惨な境遇ではない政治家も沢山いることは分かっています。しかし、これからは、ずっと多くの人々がそのような境遇になるでしょう。昔は政治でお金を多少集めた人々もいたようです。しかし、これからは。普通の政治家にはそんな芸当はできないだろうと思います。私の経験では、政治をするうちに、昔の友達とはますます疎遠になったようです。会う時間もなかったり、考え方や情緒も変わったりし、ひたすら金策を頼み、まことに友人としては厄介な存在になってしまったからです。

他の政治家たちは、ひょっとしたら私のようではないかもしれません。それでも、大きくは違わないと考えます。結局、お金も友達もいない老後を送る可能性が、どの職業より高いだろうと予想しています。

この文を書きながら、本当に私の言葉に落胆して、政治をめざす人が消えたらどうしようと心配する気持ちもあります。しかし、現実にはそんな事は生じないでしょう。ただ私が心配することは、政治への信頼がこんなに早いスピードで落ちてゆけば、政治そのものが、私たちの社会の問題を解決する機能を、徐々に喪失するようになるのではと思うのです.

私は地獄みたいなトンネルをやっとすり抜けてここまでたどり着きましたが、政治の世界に残った人々の境遇を切なく思っています。最近、ドイツのある政治家が書いた「政治家のための弁明」という本を読みました。これも言い訳としては別に效果を生みそうにはありません。同じように、私のこの文も政治家のための言い訳としては、別に效果はないでしょう。私は政治家の弁明としてこの文を書きますが、政治家のためにこの文を書くのではありません。韓国政治が少しでも変わるように願う心からこの文を書くのです。

これは、政治の解答ではなく、問題提起なのです。みなさんと一緒に、政治について考えて見ようという提案です。私のこの話はすべての政治家にあてはまる話ではないかもしれません。しかし、特別に恵まれた条件もない、普通の政治家は。みなさん、このような悩みを抱えていると思います。 <了>

 

 

(注)ノムヒョン前韓国大統領のホームページ掲載文を車寿正と

首藤信彦が翻訳・文章化した。原文は以下参照。

 

16代大統領(前)?武鉉(ノムヒョン)公式ホムペジより www.knowhow.or.kr
2008年3月4日
 直接アクセスの場合、
http://member.knowhow.or.kr/board_best/view.php?data_id=160562

また、ノムヒョンさんですが、退任後、ずっと田舎の実家に住み、
農業をしたり、たまには、その村を訪れた市民らに挨拶したりしているようです。
http://pic.knowhow.or.kr/main/view.php?start=0&pri_no=1228200147&mode=




ポラーノ広場の政治学

ポラーノ広場の勉強会 挨拶              200485

                     衆議院議員  首藤信彦 

勉強会を始める前に、一言、なぜこのような勉強会を思いついたか、一言ご挨拶もうしあげます。

第一に、これまでも社会科学分野の研究者として、日本の民主主義システムに疑問を感じていたことがあります。それは民主主義自体の問題で、R.ダールの論文たとえば”Size and Democracy”などを読むと、そもそも民主主義の原点から、それは欠陥のある制度で、たとえばギリシアの民主主義はペリクレス時代の5000人を超えると成立しない。デモクラシーの語源、デモスのクラチアすなわち大衆の支配ですが、その大衆のなかには奴隷、女性、貧困層は含まれない。またギリシアのポリスは外国(ほかの都市国家)には苛斂誅求、侵略、奴隷化を繰り返していました。

そもそもデモクラシーを民主主義と翻訳したことが誤りとの説もあります。共産主義、社会主義、資本主義すべて「xxism」ですが、民主主義はイズムでなく、xxクラシーたとえば官僚制はビュロクラシーというように、デモクラシーも民主制度と訳すべきという説もあります。デモクラシーというのは民主制という社会制度の一種に他ならない...と考えると、胸が熱くなる思いも、裏切られたという失望感も無縁のものとなるでしょう。

第二に、NGOなどの活動家としていろんな社会問題にぶつかって、研究者としての限界を感じました。なにより正確な情報がない。そこで、政治家になれば国政調査権がある、これをつかって一段レベルの高い行動をと思ったのです。しかし、えらい苦労して現実に政治家になっておどろいたのは、国政調査権は個人の政治家ではなく、会派にある。会派ってなんだ?政党、会派というのは憲法、法律に定義無い。さらに、その調査権も、結局は委員会の委員の多数決で決まりますから、結局、同僚議員の数を増やし、政権をとって与党にならないと、何もできないとわかります。

 

第三に、ここ半年の国会現場での絶望があります。

外務委員会、イラク特、予算委員会など委員会質疑では議論では全戦全勝、採決では全敗。有事法制では戦時国際法ジュネーブ4条約の国内法、議定書1.2が成立。しかし、ジュネーブ条約にこめられた戦時国際法における国際人道主義の流れと、日米安保、アメリカの単独行動主義との決定的矛盾が発生しますが、質問しても政府は答えられない。が、法案は結局成立。あれほど問題がある年金法案も同じことになりました。

結局は与党にならなければ、何もできない。そこから、外には数合わせの党勢拡大、内には派閥化.....民主党内でもこれが急速に進行中で、これもまた苦々しい思いです。

 

第四に、冷戦終焉後に起こっている新しい民主主義システムを求める西側の政治利理論、政治哲学の革新があります。

ほとんど審議されずに強行採決された年金法案、憲法の枠組みを飛び越え“閣議”によって決定される自衛隊の多国籍軍への参加、形骸化し儀式化する国会、沈黙する司法、政府の宣伝機関に堕したメディア、政治への関心の高まりの一方で下がり続ける投票率...これらは確かに小泉政権あるいは半世紀にわたって日本を支配した自民党政治の末期症状かもしれない。しかし、同時に、現行政治システムの機能不全は日本だけでなく、先進諸国に蔓延する病理現象でもあります。一方、冷戦後世界において理想の政治形態と宣伝された民主主義も必ずしも第三世界で受け入れられているわけではない。

そこから、現行民主主義の欠陥を正し、公正で機能的な民主主義システムを模索する動きが生まれてきている。ハーバマス、ギデンズ、デリダ、ローティ、ムフなど政治学者、哲学者によって審議民主主義、討議民主主義、ラディカル・デモクラシー、リベラル・ユートピアなどと称される概念が提唱され、また多文化主義や友愛思想などが主張されている。

 しかし、がっかりさせられるのは、これら世界をリードする政治理論家や哲学者が、結局は古代ギリシア、中世キリスト教神学、モダン・ポストモダン理論すなわち、西欧の視点でしたか把握できないことです。911テロですら、それを自分たち「被害者」の視点でしか捉えられず、これがいかなる思想、メカニズムに基づき、将来何をもたらすかに言及できない。これをもたらしたイスラム思想の変遷、アジアの思想は触れることができない。これでは将来の世界像も部分にしかすぎず、また日本社会改革には無力です。

 

第五に日本はどのような民主社会を作るか、その動きを政治も始めなければならないからです。実は昨日、エーベルト財団・アジア財団が主催で憲法裁判所問題国際シンポジウムが開かれました。そこで、ドイツの憲法裁判所前長官リッタ・ユンバッハ女史の説明は示唆に富むものでした。多少荒っぽく言うと、コメンテーターの山口二郎教授が日本では憲法裁判所などむだだ、みたいな見解を述べました。それに対し女史は、ドイツでは憲法裁判所が市民と憲法の距離を縮めた、これにより市民が憲法を大切にするようになったとのべ、最後に、日本で憲法裁判所が必要かどうかではなく、日本社会がどのような民主主義社会を実現しようとするのか、そのプログラムとそれに対する合意が重要で、そこからあるべき憲法を考えていけばいいと反論した。

憲法論議で欠けている視点、すなわち我々はどんな民主社会を実現しようとしているのかがこれまで論議されていないと思います。だから、この勉強会で、そうしたものがどんなものになるかを考えていこうと考えたのです。

 

最後に、ポラーノ広場と名づけたのは、宮沢賢治の寓話を面白いとおもったからだが、同時に、この会は囲い込みの勉強会ではないという意味もこめています。日本の新しい政治システム、将来の民主社会を求める人がいれば、それを皆さんに「つめ草とハンノキ」を道しるべに見つけてきてほしいからです。

話が長くなりました。こうした視点も踏まえ、ラディカル・ディモクラシーについて千葉眞先生の説明と問題提起をよろしくお願いします。

 

ポラーノ広場の勉強会 第一回

 

平岡

ポラーノ広場の勉強会ですけれど、坂口厚生労働大臣の不信任決議案の関係で、時間がずれてしまいました。講師の先生をはじめとしまして、大変ご迷惑をお掛けしましたことを衆議院になり代わりましてお詫び申し上げたいと思います。それでは時間がありませんので、呼びかけ人であります首藤信彦衆議院議員から最初にご挨拶をいただきます。

 

首藤

みなさんこんにちは。衆議院議員の首藤信彦です。ポラーノ広場の勉強会ということを企画したのはどういうことかというのはお配りしたペーパーに書いてあります。本当はそういった問題に関しても説明するつもりでおりましたけれども、時間が遅くなりましたので時間を有効に使うためにもそれを読んでいただいて、千葉眞先生のお話の後でこういうことを考えたんだなあということを読んで頂きたいと思います。ただ一つ残念なのは昨日、一昨日と憲法裁判所のシンポジウムが行われていましたが、恐らく我が党から行ったのは、というか政治家で行ったのは仙谷さんだけだろう。恐らく皆さんの所に案内が行っていないと思う。やはり憲法裁判所はドイツの憲法裁判所、フランスの憲法評議会、それからイタリアの憲法裁判所、ノ・ムヒョン大統領の永遠のライバルと言われる韓国の憲法裁判所の判事など、一流の人が来て、憲法裁判所というのはどういうかたちで運営されているのかということを話していました。残念ながらほとんど日本の方はこれに参加されていなく、残念な思いをしました。その中で、ドイツの憲法裁判所の長官になった有名な女性のリッタ・ユンバッハという方がおられるんですが、ドイツの憲法裁判所の話をしまして、我々が考えているように、憲法裁判所というのは合憲か違憲かということを言うだけではなくて、実はこういうことによって市民と憲法の間の距離が初めて縮まるという効果を持っている、価値を持っているということを話されたわけです。それに対してコメンテーターの政治学者の山口二郎さんが、日本はそういうことをやっても無駄だというような批判をされた。それに対してそのユンバッハさんが、そういうことよりも日本が求める民主主義の社会に憲法をあわせていく、あるいはそのとき本当に憲法裁判所が必要なのかどうかを論議する。こういうことが必要なのではないかということを言って、その展開では山口二郎さんもそうだなあと感心されていました。恐るべきことですが、日本では、日本がどういう民主主義社会になればいいかという論議が実はほとんどされていない。我々は最近言われているように民主主義、デモクラシーが何で「主義」なんだ、コミュニズムとかキャピタリズムとかソーシャリズムとかが、イズムというのは、たとえば社会主義、どうしてデモクラシーが民主主義なのかというのが、最近聞かなくなったけれども、本当にこれから、今の国会の状態の中でどういう民主主義社会を求めるのか。それに憲法がどうあるべきかということを議論すべきだ、順序が逆になっている。また日本の民主社会がどうあるべきかがほとんど論議が行われてなかった。一方でヨーロッパでは例えば我々が、民主党の多くで第三の道ということでアンソニーとか・・という話をしていたんですけど、どうもイラク戦争以降、ブレア政権も揺らぎ始めて、それから二大政党制が全く価値を持っているのかということに関しても大いなる疑問を持たれるようになった。こういう冷戦での西洋社会において新しい民主主義を模索しよう、形式化した国会や儀式化したシステムだけではなく、もう一度原点に基づく意識を組み立て直す、そういう動きがいろいろできている。その動きを、ある方はフィデラリズムを繰り返そう、ある方はヨーロッパの伝統的な考え方を使っていこうと。そこまで言うとじゃあアジアの伝統的な考え方は使えないのか、日本ではどういうダイナミズムで新しい道を切り開いていけばいいのか。そういったことからこれから日本はどういう民主主義を創ればいいのか、その視点から、憲法問題もあるいは安全保障の問題も全てもう一回原点から考え直していこうと思い、この勉強会を立ち上げました。今日は、何回かにわたってラディカル・デモクラシーに関しては、何人かの方に色々お話を聞きたいと思いますが、今日はラディカル・デモクラシーに関して日本で最も多く紹介されておられる千葉眞先生に来ていただきましたので、まずラディカル・デモクラシーとは何か、どうしてこのような考え方が出ているのか、こういう考え方が日本に役立つのかどうかを話していただいて、そこから議論を進めていきたいと思います。私の言いたかったことは、他にもいろいろ書いてありますけれども、それは後で、帰りの電車や新幹線のなかで読んでいただければと思いますので、それでは、千葉眞先生のお話を賜りたいと思います。

 

 

千葉

皆さんこんにちは。首藤先生の方からこういうお話をいただいて、一昨年でしたか昨年でしたか、学生と首藤さんのテロリズムについての本を読みました。9・11以降、世界の情勢がおかしくなりまして、テロということがあったので読ませていただきました。その間、いくつかの情報を得まして、お会いしたいなと。きょうはお話いただいて、我々理論的なことばかりやっていて、現実政治との接点がないと批判されている。そういうことがあって、みなさんからむしろ民主党のデモクラシー論はこうで、いまここまで来て、ここはまだだとか、未完のプロジェクトだということを聞きたいなということがありましてまいりました。それからもう一つは、わたしは地球平和公共ネットワークという市民団体の発起人の一人で、小林正弥さんとかとやっているんですが、その関連でイラクの自衛隊派遣に対して、それでいいのかということで、そういったことでそれ関連で、思想をやる接点・・。たまたま、私はここ十年間の民主政治は機能不全というか停滞しているのではないかというふうにずっと眺めていた。つまり細川氏の日本新党旋風が起こって、たちまち過ぎ去った。また社会党が安保、自衛隊に対して合憲というふうなことがあった。等と色々なことが90年代の初めにあって、それから日本の政治は民主政治の失われた十年という思いが入ってきたんではないかとずっと思っていたのだが、そういう中でそういう意識がやはり政治学者だけではなく政治家の中にもある、政党人の中にもあるということを知り、ああそうかと言うふうに思った次第です。イギリスの政治学者のジョン・ダンという人は、日本の政治は90年代に入って、末期になった。政党政治、議会政治、官僚制はある意味形骸している。そういう中で、かなりある意味で停滞した中で新しいリーダーシップの掛け声はあるが、なかなか指導力を発揮できない。21世紀初頭の複雑で困難な状況に対して対応できる数値になっていない。外部の識者のほうが厳しく見ているのではないかと思う。そういったことで、ジョン・ダンなどが失われた民主政治の十年、政治的麻痺の十年として過去十年間を総括している。これに対して、私は8割がた正しいと思いながら、しかし同じに、地域の政治、ローカルな政治においては、例えば巻町の原発反対運動の住民投票(968月)がおこり、沖縄では米軍基地の存続を問う住民投票がおこり、その他いくつかの住民投票がおこり、やはり地域政治は必ずしも活性化、民主化が滞っていると言うことではないのではないか。さらに20024月には地方分権改革が始まって、中央政府の権限や財源があちこち自治体に分権化され、法制上の基盤ができた。これをどう生かしていくかが大問題で、なかなか難しいが、しかしローカルなレベルにおいて民主主義の活性化の条件が整ってきた十年でもあったという特徴がある。そういったかたちで現在、やはりデモクラシーを中心に日本の政治、あるいは世界の政治を考える人間にとっては、このような地域の政治や人々の生活に根付いている参加デモクラシーの行政を、国政に反映していくための具体的な制度設計、運動論、それから政策提言が必要になってくるのかなあ、そうことを考えている。先ほど申し上げたように私自身は西洋政治思想史を専門にし、現代の政治哲学を専門にしているので具体的な政策や運動論については専門ではないが、我々の仲間はそういったことをやっている仲間も大勢いる。しかし日本の政治学は現実の政治や市民とはかなり切れている。抽象性、あるいは孤立化の中でなされていて、理論が大いに民主化されるばかりになっていますけれども、現実にそれを実行していくかということになるとこれまでは生産性が低かった。ですから若い政治学者の中に、それに対する大きな反省があって、これからやはり現実の政治、そして、またその期間の追求をやっていかなければいけないという動きがあるのではないかと思う。私個人としては、皆さんと見解が異なるかもしれないが現在は平和憲法、これだけ危機的な状況にありますけれども、よく考えて見ますと21世紀の日本のアイデンティティ、日本の将来の道筋を考えてみますと、平和憲法を中心とした日本の外交、それから日本の国内政治、それと同じに民主政治の民主化、デモクラタイゼーション オブ デモクラシーと言われているが、こういった目標を持ってやるべきものではないかと言うことで,何人かの政治学者や行政学者、そういった人たちが市民運動との関わりを強めてきているということも言える。60年代のああいう動きとまたは違ったようなかたちでそれを模索する動きもある。このことを最初に申し上げておきたい。それから、ラディカル・デモクラシーとは一体何かということなんですけれども、実はちょっと古いんですが、1995年にラディカル・デモクラシーの地平というのを新評論から出して、その目次とか、ラディカル・デモクラシーの手順書をコピーしてきたので後でご覧になってください。それから2000年にはデモクラシーという、これは岩波で、フロンティアという、そこでもう一度ラディカル・デモクラシーの問題を考えたい。かいつまんでいいますと、やはりひとつは冷戦構造の終結というのが大きいと思います。世界の革新的な政治を追求している様々な人々が戦後の1950年代60年代、社会主義、あるいは共産主義、あるいはもっと理論的に言えばマルクスレーニン主義の時代を駆け抜けて、ラディカルな政治、あるいは左派な政治というのを追求していったんですけれども、ご存知の通り、東ヨーロッパ諸国の大きな経済的な停滞、政治的な停滞が大きかったと思います。それからまた同時にソ連の様々な抑圧が知識的な構造を開示し、そして、ゴルバチョフのような稀有なリーダーが登場した。ということでいわゆる東西対抗イデオロギーの中で、東側が自ら没落していくということがあった。結局のところ、共産主義的な権威主義体制が音を立てて崩壊していくわけだが、崩壊していった結果とともにそのプロセスが大事である。そのプロセスは意図した形であれ、意図していない形であれ、非暴力的な革命、もちろん例外がいくつかありましたけれども、東ドイツにおいてもチェコスロバキアにおいてもハンガリーにおいてもポーランドにおいても大体の線が、非暴力の形で手配してきた。しかもそこでテーマになった観点が市民社会論でありまして、デモクラシーの概念だった。非常に共産主義のイデオロギーになじんできた人たちにとって、ショッキングなんですが、ひょっとするとデモクラシーの方が共産主義や社会主義の概念よりもはるかにラディカルな概念ではなかったか。要は発見があったということですね。それはやはり東欧革命やソ連の崩壊が一つ我々に教えてくれた大きなメッセージだったと思う。他方、失われたところをみると民主主義それ自体が機能不全に陥り、代議制が十分に機能しない。複数政党制がまた十分に機能しない、大企業の影響力が非常に強くなる。グローバルに展開される金融照準の影響力が非常に大きくなるということで、デモクラシーが危機的な状況をむかえていたというのが西側諸国の90年代の初めあるいは中ごろの状況ではなかったか。日本も例外無くそう状況だった。その中でもう一度デモクラシーをデモクラタイズ、民主化するという課題が西側諸国の知識人にとっても大きな課題として、現に認められてきた。中でも利益誘導型の民主主義、それから多数決主義という決定あるいは手続きだけを語るような民主主義ではいかんのではないか。民主主義の中身で、実現されざる理想、あるいはユートピアなんですね。民主主義は限定的に未完のプロジェクトであって、完成されざる課題をという性質を持ったものであって、民主主義は現状でとどまるということはあり得ない、常に進行形であり、常に進化し、常にラディカライズされている、そういう性質を持っている。そういうことが発見だった。そういったことでラディカル・デモクラシーということが言われていたわけですけれど、それを言ったアメリカの政治学者、シェロン・ウォリンと言う人も、ストロング・デモクラシーということを唱えたベンジャミン・バーバーにしても、あるいはハリー・スラブッド、あるいはベルギー人ですけれど、アメリカ、イギリスで活躍したC.ムフというふうな人、そのだんなであるラックロウという人ですね、彼らはそれぞれ違うが群衆の中にやはり未完のプロジェクトがあるんですね。フランス革命の自由平等と友愛にしてもいまだに完成されていない。実現の途上にある。そういうものとしてもう一回捉え返そう。ただ、複数政党制があり、代議制がある。そして投票が適正に行われているというだけでは、デモクラシー何も無い、という感想になったかと思うんですよ。それでラディカル・デモクラシーということが言われるようになったと私は考えている。そこで、ラディカルデモクラシーですが、日本語では「急進的民主主義」と訳すのをやめて、ラディカルの本来の語源的な意味が「根源に立ち戻る」ということなので、根源的民主主義という言い方がされている。それから実は小田真氏や鶴見俊介氏らが50年代、60年代に根元からの民主主義ということを言った。ラディカルデモクラシーの系譜というのも決して無いわけではなくて、鶴見俊介、それから小田真の中に50年代60年代の民主主義の中にもあった。しかしそれにしてもずっと言われてましたけれども、彼に民主主義の根元に戻る、具体的には本来の市民革命に戻る、あるいは革命の指導者に戻るというよりは、もう一回古代ギリシャのデモクラディアーズ、デーモス・クラティア、群集より支配、、自己の実現、あの場面に戻ろうという動きがわりと僕たちの中にありまして、そう風なことで一つは古代ギリシャのような自由な言動、そして自由な討議や市民、そういったことにより合意が形成される。伝説的デモクラシー、真剣デモクラシーという言い方をしますけれど、デモクラシーにおける言葉の助詞、よく言われますけれども、頭をたたき割る代わりに、頭の数を数えると言うところから近代民主主義が始まったと言われますけれども、古く古代ギリシャに戻れば、そこには自由な討議と言う考え方があり、さらに合意による意思決定、それを政策に生かしていく。それがひとつあったのではないかと思われます。それからもうひとつはデモクラシーの主人公は人民と言いますか民衆と言いますかピープルであります。フィリピンで1986年のマルコス政権を倒したのはピープルズパワー、民衆の権利といわれているわけです。同じような役割で民衆のパワーが炸裂したのが東ヨーロッパ諸国での市民革命であり、またソビエトの権威主義的な共産主義体制に終止符を打ったのも情報の開示やグラスノスチやペレストロイカというのを主張した民衆の声だったと思われる。ですからもう一度政治の主体であり、また代議制の客体である、そしてまた民主政治の根源そのもの,基盤そのものである民衆の福利、それから政治社会の共通善の追求がデモクラシーの最大のモットーとして考えるべきであるという議論が、ラディカルデモクラシーの中から言われている。それからデモクラシーのもう一つの考え方はリベラリズムの考え方とコントラストを見せているわけだが、リベラリズムとデモクラシーはもちろん重なり合っているわけですが、しかし歴史的には別物で、智恵も違う、考え方も違う。やはり民主主義の場合は、リベラリズムの場合は教養ある市民の政治参加を歓迎するわけだが、いわゆる無資格者の参加そして大衆の政治参加にたいしては常に脅威を覚え、警戒心の怠らなかったという点があろうかと思う。そういうわけで、財産と教養ということが17世紀18世紀19世紀における市民権のひとつの大きな条件として、歴史的に西洋のリベラリズムが課してきた条件だった。これに対して、デモクラシーの方はもう少し向こう見ずなところがあって、アメリカのポーラー、ターンチップ?のデモクラシー、イギリスのピューリタン革命、イギリス革命と続いた左派のデモクラシーにしても、大衆、無資格者の政治参加、政治参加を通して彼らの自由と平等を得ていく。それが後で有名なピューリタン革命の時がありますけれども、貧しい者もやはり革命で闘ったわけであって、政治に対して好意的な政治的な発言姿勢を持つべきである。そういう風なことで今から思うと非常にすごいことなんですが、17世紀のそういう計画の宣言の中に現在でいう平等な政治参加要求、平等な投票権がすでに出てきている。そう言うことを考えるとデモクラシーの考え方には社会における脆弱な立場、弱い立場にある人たちへのコミットメントに問題があるということだと思う。そこがリベラリズムに寄与したリベラル・デモクラシーの考え方だと、もう少し根源的にデモクラシーを捉えなおそうとするラディカルデモクラシーの考え方の違いがある。一部社会主義と通点するデモクラシーの考え方もあるのではないか。それからもう一つは、やはりリンカーンの有名な言葉であるが、人民の人民による人民のための政治、これが標語であり、モットーであるが、これこそがまさに実現されざるユートピアとしてのデモクラシーです。民主政治の目標でありゴールである重要な規範としての重みを今なお持っているのではないか。こういう議論がラディカル・デモクラシーの論議の中でずっとなされてきた。それからもうひとつ、やはり注意したいのは、差異の政治の議論があって、これまでいわゆる市民権、人権と言うのは普遍的に与えられてきて、人権の普遍性は非常に大事だが、しかし政治社会の下に抑圧され人権を剥奪されたマイノリティが、アメリカの場合はインディアンだとかヒスパニックの人々であるとか黒人の人々であるとか、カナダの場合でもイヌイットの人たちであるとかフランス語を話すケベックの人々、そんな中から出てきたのが、多文化主義的な主張を入れながら各国においてこれまで十分人権保障されてこなかった集団や人々に対して、彼らの立場をエンパワーする,ファーマティブアクションのような形で、彼らの人権を守り芸能圏や文化圏を守っていく、そういう主張がなられてきたわけでありラディカル・デモクラシーの理論家の中にはフェミニストが数多くいる。そういうふうなことでラディカル・デモクラシーのもう一つの要諦の中には差異の政治の問題意識がある。もう一つは、これを最後にしますが、シェルドン・ウォーリンやウィリアム・コノリーと言ったラディカルな哲学者ですが、彼らはやはり安保問題、いまではあまり言われなくなったのですが、北の富裕な国々と南の貧しい国々との構造的格差、所得格差の問題をやはりどれだけ私論の問題としてとらえようとしているか。ですからラディカルデモクラシーはグローバルな形での、グローバルデモクラシーとして展開されるべきであって、ローカルなレベルにおけるデモクラシーの活性化、国政のレベルにおけるナショナルデモクラシーの普段の活性化と同時に、グローバルなレベルで継続覚醒される構造を改める形でデモクラシーを中心にした世界を形成していったらいいのではないか。日本でも具体的なことについて議論できないことは、私たちが持つ抽象性というか理論のほうを追いかけていて、なかなか現実の政策提言の具体化がおろそかになっているという問題があろうかと思いますが、私の友人は,ある人は原発問題を一生懸命やったり、ある人は・・という形でラディカルデモクラシーを展開したい、私の場合は改憲でもなくて護憲でもなくて、前文と9条を中心にして、活憲と言うんですか、平和憲法を活性化する、創造的な展開を目指していく方向、今の改憲論の多くは9条を大体、あまり明言はしませんが、それに対しては反対しながら別な形での憲法の数字的な展開とラディカル・デモクラシーをつなげたい。以上ですけども、私はもちろん民主党の皆さんにデモクラシーをどう捉え、どういう民主主義社会を日本にとって、あるいは東アジア、世界にとって形成していくかを考えればいいか、もちろん私はそのことをお伺いにきたというか、その点でもご発言いただければありがたいと思います。

 

平岡

ありがとうございました。なかなか学問的分野から離れていた皆さんには難しかったかも知れませんが、私にもなかなか追いつかなかったところがあった気がいたしますけれども、そうは言っても、いろいろな理論と具体的な問題をそれぞれかみ合わせながら考えなければいけないという立場に立った我々ですから、千葉先生からお話があった件、あるいは千葉先生から質問をしていただいた件について誰か質問とかご意見があれば、頂きたいと思います。

 

首藤

最初に一つだけ。ラディカルデモクラシーで、地域が期待するところがあるんですよ。例えばハーバマスとかドイツの人たちは、かつてのギリシャのように街かどでソクラテスとかアリストテレスがワーッとしゃべってやってくような、討論的な、審議的な  を期待して、これによってやっていこうと。しかしわが国の場合は討論と言うのが成り立たないしリベートもなければジャーナル紙というのもなかなかない。それからアメリカではリベラリストというのがあって、今のネオコン、またはコンサーバティブの人とは別に、アメリカには建国以来太い太いリベラルのそして広い広い底辺があると思うが、人間にそれがあるかというと、リベラルと言う言葉だけあって、昔から言うように平家・海軍・国際派っていって弱いものの代表みたいに非常にリベラル、げんきがなく、ぜんぜん力がない。じゃあ自分で新しい民主主義をこれにたいしてつくっていこうとしたら、一体どう言うものがどういうものがそれを担えるのか。いま、最近でてきた社会にコミットした目標とか陽明学とかに是非関心を持ってなんかそう言うものを日本社会の活性化しておきたいという強い意思をもっているのですが、先ほど言ったドイツ型の考え方とリベラリズムの考え方と最近あきらかに立ちあがってきたイスラームの新しいコンセプト、イスラム復興主義、これを原理主義と間違って訳したりして、イスラム復興運動ですよね。大きな運動。それに対して東洋では、日本はどのようなものを一つの材料として社会の活性化に組み込めるのか。

 

千葉

日本固有のデモクラシーをつくっていかなればだめ。日本の文化になずかない。西洋の概念のデモクラシーはちょっとうましたところがあって、ちょっとキレイ過ぎる、魅力的過ぎるんですけれども、やはり日本には日本固有のデモクラシーの文化があるとおもうんですね。やはり困ったじょうきょうにあるというときに体が動く、やはりそういうのは日本的だと思いますし、それから諸個人があまり自分の権利を主張しないというところで諸刃の剣なんですけど、ただ西欧諸国の冷たい個人主義に対抗して古風なものを大切にしていく、これもデモクラシーへのポテンシャルをかなり持っている、日本の成熟化だと思います。それからやはり日本が経験して世界が経験しなかった一つは戦争の悲惨さ、それはやはり我々の親の世代、あるいはその前の世代。死んでしまった。その戦争経験が教えたことはいろいろあるとおもいますが、政治権力を主人公であるところの民衆の権限内に認められて、危ないぞと。ですから、憲法の前文も平和的生存権が入っていますけどそれはやはり国民の内側ということで世界に人々という考え方もありますし、面白いことに平和的な生存権が、ポテンシャルな敵として考えているのは政府、政府の権力、やはり軍。政府の軍事力によってその政府の自国の国民が平和を脅かされる。平和の中に生きる権利を失う可能性がある。不幸な悲惨な戦争体験からそのような後退的な評価を、アメリカ人は受けていないし、民主的な先進国と言われるイギリスも真似できない。おそらく、日本には戦争の悲惨さを骨身に知った国ではなかったかと思う。それから日本には世界に語るメッセージがたくさんありますけれど、そういう平和的な民主的な世界こそがあたりまえの世界であるが貴重な宝である。それを絶対国政として是非主張して頂きたいと思っています。

 

大出

・・なかなか日本というのは日本流のデモクラシーはできないのではないかという前提がありながら96年の選挙に出ておっこんたんですけど、そのころ参加デモクラシーというには真だ足りないと思い、主役民主主義と言うのを使って・・

 

千葉

そうですね、主役デモクラシーは大事だと思うんですね。60年代の人たちの大きな議論はまず自分の私的利益の分から大声でこれを追及したいという夢を、という議論なんですね。デモクラシーはババ抜きが大事だと、自分の利益追求が大事だとという風に思います。ただ、それが3040年たってデモクラシーって言うのは利益誘導という考え方が広がってきた。利益誘導型民主主義。利益を追求するプロ集団がいてその政府均衡がなり立っていて、そこで意思決定がなされる。そうなってくるとデモクラシーがユートピア性を失う。デモクラシーはあくまでも現実的でないといけない。現実的な手続きであり具体的な政策決定であり、そこを失うとデモクラシーではなくなる。デモクラシーの中にまだ未完のユートピアがある。それはわれわれが主人公であるという考え、意思。それは住民投票というかたちで結構浸透してきたのかなという感じがした。沖縄ではそういう意識が結構かなり人口密度としては多いという気がしています。

 

水島

きょうはありがとうございました。小林正弥先生からは衆議院の憲法調査会で国民政権  についてお話を頂いたことがございまして、そのときは本当に参加デモクラシーの活動、 これは民主党の中でかなり共有されている考えだと思うんですが、官と民の間に公と言うのがあるという考え方を共有している方が多いと思うんですが、まさに  という考え方は公的な考え方で、NPO型社会に近いものなのかなと思いながらうかがっていたんですが、ただそこで今の日本でNPO制度がぜんぜんなっていないとは言っても、NPOが活動する状況はかなりある。政治的な枠組みとして、これもまた民主党の中でかなり共有されているとは思うんですが、小さな政府の中でプラスNPOが活動する社会を作ることが、私はそこまでの話でいいのか、ただここで多分提起しているのはその枠組みを作るということレベルの話ではなくて、もう少し人々の意識としてどのように関わっていくかと言う、今非常に熱心なNPO活動家が一生懸命やっていてその他の人たちは政治家になれる社会とはちょっと違う。そう言う中で日本独自のデモクラシーということになるんですが、例えば極端な例かもしれないが、ガンジーは弁護士が社会を悪くしたと政府の主張を攻撃したり、そう言うのが社会を悪くしたから、医者と弁護士はいらないと。私も医者だから要らないのかなと。それはそれとして、どのように先ほどおっしゃっていたコミュニティの考え方の中では、今政治家になって思うのだが、公的な要請みたいなものが一体化していてかえってそれが人々の  権利を守っていくことという要請と権利を主張するという形式がかなり今ずれてきてしまっている。単に依存するのではなくみんなで参加していきましょうという、下手をすると無資格者が高尚なことを言って自分たちの   になりかねないので、いわゆる社会的弱者をしつつ   少しでも任せてなんとかではなくて、参加して一体化していく社会的な枠組みを作っていく必要があると思うが、そう言ったところが現時点の問題意識の中にあってその中で小さい政府でNPOが自由に活動できるような制度が整備されればいいと、その中で   というようなレベルではない所で枠組み論として何かあれば教えていただきたい。

 

千葉

NPO法ができて5年、6年経ちかなり制度的には好条件になってきたが、制度が整備されればいいかというとそうではない。それを動かしていく緒個人のあつまりです。たしかにわたしもNPOの様々なシンポジウムとかにでて、かなり刺激と言うか年々すごく進歩してパワフルな人たちがどんどん出てきて、ある意味個としての自立しながら、そしてまた全体もできる、というデモクラティックなものを支えに  そういった人たちがいろんな職業専門分野やローカルな場でかなり複数存在している。そう言うことが一つ大きな動きなのだろう。そこで自立と連帯が一つになる。本当の連帯が自立の上になる。それと同時に、社会民主主義と魂をどう証明していくか、そう言う考えが大きい。そう言う意味では過去のいろんな人物の発掘、例えば聖徳太子の和して同せずとかですね、現在につながる考え、通用する考えだと思うんですね。連帯ではあるけれども、個々別に意見がある。成熟したある種のデモクラティックな共同政治があると思うんですね。それが好きなのは自民党の代議士でしたけど、石橋湛山ですよね。非常にダイナミックな自立した人間であると同時に、共同性ですね、日本というものに対することもありますけれども、日本だけではなくて普遍的な国際社会、そう言うひとが、やはりいままで、聖徳太子と石橋湛山、ずいぶん違うタイプですけれども、そう言う人を探しているとかなり多いので、そう言ったことがデモクラシーの人間像の典型みたいではないか。私も仏教や儒教とデモクラシーの関係が大きなテーマに今後なるのではないかと思っていますが、その社会におけるある点でデモクラシーの形成に果たして感覚ガ無いんですけど、日本の宗教事情から果たして ある種デモクラティックな面ばかりにむかってきたけれども、きっとそうではないなと思う。

 

中村

 

千葉

おっしゃるように、日本国憲法はデモクラシーや  世界の憲法の最先端を行っている。例えば全文における平和的生存権、日本国民だけではなく世界の人々に国家の枠を超えている。更に13条、諸個人の様々な権利、生存権からはじまって、23条で更に展開されている。男女平等に関しても他の憲法に比べて進んだ最高の表記になっています。今見ても恥ずかしくない。そういう人権規定になっている。比べていただきたいと思います。ただ、情報公開とか環境権が入ればもっといいが、今の段階では、それが下位の法律でできているということだと思います。そういう意味で、リベラルな権利としての生命の権利だとか財産の権利それプラス社会権的なものも含まれている。そういう意味では、理想的。

先ほどの最後の国家主権の形式的な考え方、実質的にちょっと分からなかったが。

 

中村

 

千葉

ある意味で、権利の歴史が変わっていると、パラレルな関係があるかも知れない。夜警国家的な銃身的な国家主権論だと、弱小国家と大国との格差はもちろんない。ですから弱小国の主権をもっとエンパワーする、国際機構、国際法、国際秩序という規定が必要だろうということだろう。そういう段階に来て久しいのではないか。私も、首藤先生がご専門でしょうけど。

 

平岡

時間があまりなくなったんですけども、質問したい方はおられますか。

 

石毛

最近、篠原はじめ先生の岩波新書の中でハーバマスだとか、少数制民主主義の議論や民主主義の方法論、私は民主党の政治の方法論について政治のサブシステムをもっと有効に取り入れる必要があるのではないか。国会議員は選ばれたとよく言いますが、選ばれたとたんに切り離されて、決定権限をもっていて国民一般とはある種  な状況があるのが一般に言われている。そうした状況の中でもっと民主主義の方法論というのを民主党はぶつけていく必要があると私はおもっているが、その中で議論があるのかもしれませんけれども、どのようにお感じになられますか。日本人と言うのとはちょっと違うのかなとお話を聞いて思ったものですから。

 

喜納

 

金田

 

千葉

大変勉強になりました。教えていただいてありがとうございます。篠原一先生ですが、ラディカルデモクラシーの一人の、明快におっしゃられ、深いというか、支持するよとおっしゃられた政治学者の一人なんですね。ご自身もずっとそれを川崎の市民大学院でやってこられた。市民の政治学は非常にいいことだと思いますし、あれはハーバマス流の建設のデモクラシー、市民のデモクラシーを中心においてますから。ですからデモクラシーの根幹は意見を言い合うことだ、声を上げることだ、反対の声のほうがもっと  なんだというフィロソフィーだとおもうんですね。ですから僕は建設的デモクラシー、市民デモクラシー、それはデモクラシーの命ではないかと思う。  や何かわだかまりがあれば声を発する、そういう風なかたちでのディシジョンメイキングが、それがマスメディアにはかけていますし、それを担っている記者クラブにかけているんだと思うこともあるんですけど、

一つの方向に持っていこうとしている動きが多すぎるのではないかと思う。さっきの政党内の上申条項、これは各国の多くの政党にあるんです。反対してもいい。それがむしろ政党を活性化させて議論を豊かにし、より見つめられ、より吟味された、最終的な政策決定に至るんだという考え方。やはり伝説的デモクラシーというのは言葉が政治の出発点であり、終点であるというのがあたりまえなので、常識的に聞こえるのであまりインパクトがないが、本当にそうじゃないか。そう意味で先ほどおっしゃったように下部組織ではないか。そういうのが、定説的に豊かにあるかたちでの集団形成がすごく大事ではないかなと。それは政党だけではなくて、組織もそうですけど、組織体がそういう問題を抱えている。さきほどおっしゃった、私は日本というのは単一民族支配にもかかわらず、雑居性の国民性であり文化であり、それが日本の強さではないかと思う。日本人の起源の問題にも出てますし、先週京都でウィリアム・コロンの   日本では髪は黒いし、つまらないでしょうと質問したら、先祖はいろいろなところから来たのだろう。ミクロネシアから来た人もいれば、シベリアから来た人。それが日本の文化の面白いところ。そこからダイナミックなデモクラシーの文化が出てきて、キーワードは恐らく多様性とか多面性ではないか。単一の国家や隠している文化というレッテルに対して、ずっと思ってきたことなんですけども。最近   多様性なんだなあ。沖縄の問題もアイヌの問題も在日朝鮮人の問題もそれにどれだけ共存、共生 

先ほど民主党の場合は党の拘束はそれほど強くないと聞いているんですけど、誤解でしたか?それは是非それは下から変えて欲しい。

 

平岡

終わりになってやっとラディカルデモクラシーのことが分かってきたかと言う気もしますけれども、今日は短い時間でありましたけれどもありがとうございました。今後もポラーノ広場の勉強会を続けてまいりたいと思いますので、ぜひ参加して頂ければと思います。今日は本当にありがとうございました。

 

2回ポラーノ広場の勉強会

20041117日(水)15:0016:30 参議院議員会館特別会議室

 

(首藤信彦衆議院議員)

皆さん忙しい中ありがとうございます。今日は党首討論ということで、どたばたすると思いますが、法政大学の杉田敦先生にデモクラシーの論じ方をテーマに話していただいて、その後に実務に携わっている政治家として、あるいはこの永田町で秘書としてあるいは政策スタッフとして活動している皆さんからも自由に意見をいただいて日本におけるデモクラシーはどのようなものがいいのかについて話したいと思います。

なぜそのような話をするかというと、我が党でもどんどんと勢力が大きくなってきてやがて政権を担うのではないかという主張もあるかと思いますが、では担った後日本はどういう社会になっていくのか、どういう政治にしたらいいのかというと、はたと誰もアイディアがないということなんですね。人によっては「いや君、そんなことより民主党の政治っていうのは自由民主党マイナス鈴木宗男でいいんだよ、クリーンな自民党であればいいんだよ」という人がいますけども、おっとどっこいそうじゃないと、日本の社会は本当に激変しているのでその中で世界とどのように付き合っているのか、少子化の中で若者をどうやっていくのかという社会の様々な問題にどういう社会を、政治システムを作っていくかという視点が全く欠落している。ですから今日我々が日ごろ口にしている民主主義、デモクラシーというものに関して、一体どんな視点があってどんな分岐点があるのか、どういう可能性があるか、何を積み上げていったら新しい政治システムなのかという糸口をぜひ杉田先生に語っていただいて我々と討論していただきたいと思っています。

それでは時間となりましたので杉田先生に30分か40分お手元に配っておりますレジュメに従って話していただいて、その後こちらからも質問を、今日は政策スタッフ、秘書の皆さんにも質問していただいて、そしてまた杉田先生の方から政治家に対していくつか問いかけていただいて、そういうものを課題としながら次の研究会につなげていきたいと思っています。前回の千葉眞先生の講演はここにまとめてありますが、このような形で成果をまた皆さんに配らせていただきたいと思います。それでは杉田先生、よろしくお願いします。

 

(杉田敦法政大学教授)

 首藤先生、ありがとうございます。今ご紹介いただきました杉田と申します。私は政治学を専攻しておりますが、主に政治の概念、デモクラシーですが、政治権力、あるいは自由主義とは何か、といった問題について理論的に検討する、根本から考え直すことを仕事としている者です。今回はおそらく私が数年前に書かせていただいた「デモクラシーの論じ方」という小さな本で展開した論点について、もう少し現実との関係の中で考えるというご趣旨でお呼びいただいたと考えています。

このデモクラシー、あるいは民主政治、民主主義、民主制などいろいろな呼び方があり、これは事柄をどこまで制度的なものとして捉えるか、あるいはその考え方として捉えるか、考え方なのか行動の仕方なのかという違いによっていろいろな呼び方を日本語に充てているが、デモクラシーには英語やヨーロッパ語ではそういった違いはない。イデオロギー的なものも、極めて制度的な枠組みも含めてデモクラシーと言う。そういった意味でもちろんデモクラシーは一つではないと言えるが、それ以上に通常民主政治と呼んでいるデモクラシーについて、それ自体自明なのかというとそうではないのではないか。

これにはいくつかの切り口があると思うが、私は大きく二つ考えている。つまり、デモクラシーは一方では意思決定であるということは間違いない。だからある人間の集団が、その全体に関わる決定をする時に、全員が何らかの形で関わって決めるという意思決定であるというのは言うまでもないことで、もう一つの大きな考え方は、これが議論する過程ではないかということである。決める過程というのが第一のポイントだとすれば、むしろ議論する、話し合うプロセスがデモクラシーではないか。そうと考えるとこの二つは必ずしもいつも矛盾なく両立するわけではない。というのは話し合いを極めて重視していけば、いつまでも決定できない。場合によって話し合いを非常に重視する。そしてその話し合いの中で、いろいろな意見の違いや対立点がどんどん出てくることが考えられる。現実世界ではなかなか実現しにくいことだが、もし我々ができるだけ平等な立場で、社会における地位の違いや持っているものの違いではなく自由に発言することを保障していけば、すぐに話がまとまるということよりも違いや論点がどんどん出てくるということだ。

一方、最初に言った意思決定、決定過程、デモクラシーは決めることだというのを重視していけば、決めることは大事なことだから、「これは、そうなるとあまり長く話し合うのは良くない」ということになる。「決めなければならない」というのを強調する場合には、その緊急性、あるいは「今、非常に難しい時期だ」ということを、これはある意味いつでも言えることだが、それを強調することによって国難の時期だと言えば早く決めなければならなくなる。先ほど言ったような差異や違いに注目していくという例だ。共通点を早く探そうと、あるいは決定できるような方向を見つけようとすることを強調されることになる。この二つの立場の対立点、つまり決めることが大事なのか、それともよく話し合って違いを明確にすることが大事なのかということは方向性としてはすぐには一致しない。場合によっては対立する。おそらくこういったデモクラシーをめぐって、国政の世界でもそうだと思いますが、対立点が起こる一つの理由はそういうところにある。典型的にはいわゆる慎重審議対強行採決をどう考えるか、ということだ。

こういうことで出てくることに限らず、我々は一体何のためにデモクラシーをやっているのか。根本的なところでそういう対立がある。結局はその二つの方向性は我々の政治の中では折あわせていくしかないので適切な妥協を図る。よく話し合うけど決めなければならない。一般的にはそういうことになると思うが、実際にどのくらい話し合えば十分と言えるのか、論点が出尽くしたと言えるのか、あるいはまだ決めるのは早いのか。実は答えのない問題なので、答えをある意味政治的に決定しなければならないという構造がある。その場合にはおそらく多数派が決めることになる。

そこで次に多数決の問題ということで考えてみたいが、我々が実際にデモクラシー、民主政治を実践する時には多数決でやっている。単純多数決の場合、三分の二という場合などあるが、多数決でやるということは自明視されているわけで、それ自体は否定しにくいものである。その反論としてオールターナティブとしてよく言われるのは全会一致的なコンセンサス主義はどうなのか、その方がより民主的ではないかという考え方もある。例えば、かつて美濃部(亮吉・元東京都知事)さんが「橋の哲学」ということで、一人でも橋を架けるのに反対ならば橋を架けないというのも、当時のある意味民主的な考え方を人々に与えたと思うが、問題もまた存在する。コンセンサス政治というのは、少数派にいわば拒否権を与えるに等しい。つまり少数意見でも止められる。極端に言えば一人でも反対したら止められるという場合には、最後の一人、反対している一人に拒否権を与えるということになる。その拒否権を持っている人が、真っ当な理由で拒否権を行使している限りはまだ結構だが、単にごねている場合もあり得るわけで、その単にごねている一人が拒否権を持つことはその一人に対して極めて大きな発言権を与えていることになり、発言権の平等に反するのではないかという考え方もある。ここは考え方が分かれるところで、デモクラシー観の分かれるところだが、最後の一人に発言権を与えてもいいという考え方もある。ただ多くは、発言権の平等はデモクラシーの中で大事ではないかということで、例えば5150101人で物事を決める場合は、結局発言権が平等であれば51の方が50よりも多くの声を集めているということで発言権を得ている。これは正当化できるという考え方もあり、それは一段と流通している。

ただ、多数決なら何でも決めていいのかということにはいろいろな問題が出てくる。これは昔から言われる「多数者の専制」という言葉、専制政治である。多数者が専制君主になる。専制君主というのはもともとは王様が専制君主だから、専制と言えば少数者の政治という考え方が一般的なのに対して、多数者が専制君主になるのではないかというのが、19世紀ごろから(アレクシス・ド・)トクヴィルなどいろいろな人が言って、今日まで言われているわけだが、この多数者が専制的なことを行いうるということは、ある政治学者が挙げている例で言うと、例えば我々が道を歩いている若い男性を捕まえて脳死状態にしようとする。そしてその臓器を10人の人に移植する。例えば脳移植、腎臓移植、心臓移植、骨髄移植などだ。そうすると10人が助かる。1人死んで10人が助かるわけだ。そうするといわゆる功利主義的な、よりたくさんの人がうれしい、たくさんの人にとって効用がある。政策がいい政策だという前提を立てると、こういうかなりショッキングなやり方を止めることができるのか、論理的に止められるかという問題が出てくる。つまり1人死んで10人助かるならいいではないかと、逆になんとなく嫌な気がする。おかしいのではないかと皆思うがそれは逆に言うと1人を生かすことによって10人を殺しているのではないか。これは、もちろん単に移植をすれば助かる人を見殺しにするという話と殺すという話は違うのではないか、作為と不作為とでは違うのではないかといろいろ法律家が議論しているけれど、そういう細かい話は別にして、この多数者にとっていい決定が常にいい決定ではないという例としてこれはあり得る。

もう一つは、かねてから日本の国政の中で非常に大きな問題の一つとして存在する、いわゆる沖縄の基地問題みたいなもので、これはあまりこういう形で議論しないし、議論することに気付いていないのか、気付いているけどあえて避けているのか分からないが、沖縄問題、特に基地問題とは「多数者の専制」的な事態に近いのではないかと私は前から思っていた。つまり沖縄に基地が残るということはおそらく沖縄以外の多くの地域にとって楽な選択肢だ。仮に沖縄に現在集中している基地について、もしこれはおかしい、沖縄にあれだけの基地があるのはおかしいという場合、一番いいのは基地がそもそもなくなればいいが、もしなくすことができない中長期的になくすことができない時に、そのまま難しいから沖縄に置いておく一種の不作為だが、それによって結局沖縄に非常に大きな負担を残すことによって沖縄以外の大多数の人は楽をしているということがあり得る。

あるいはいわゆる原発の立地でも同じようなことが言える。こういう問題に関して従来は後でナショナルなデモクラシーという話をいたしますが、それとも関係してきますが、そういう例えば基地の立地であるとか重大な原発関連施設等の立地とか、そういう問題というのは国政レベルの問題とされてきた。その結果そうすると国として沖縄に基地を留めよう。それは国民の決定なのだと。例えば沖縄の人が反対しても、それは参考意見というか、ただ言っているだけであくまで基地立地等はナショナルな問題だと黙してしまえば結局沖縄の人たちが、そこは単純ではないというのはもちろん承知していますけれど、もしも基地には反対だ、出て行ってほしいとしても、それは勝つ見込みはほとんどない。それは多数者がある基地のない地域の人々がどう考えるかというところにかかってきてしまう。

もちろん多数派と少数派、あるいは多数者と少数者というのをあまり固定的に考えるのは問題があるわけで、事柄のイシュー・争点ごとにもちろん変わる。常にある人が少数者、弱者で、ある人が弱者とか固定的には言えないが、非常に極端に少数者の権利がデモクラシーによって阻害される事態がもしあったらどうするかということだ。これについて、よく特に法律学者、法哲学者とかそういう方々、あるいは憲法学者とかは、通常司法による救済を強調する司法に期待するのは司法積極主義といっていいと思うが、現在の日本の裁判所というかこれまでの日本の裁判所は、司法消極主義、いろんな難しい問題は、政治に投げ返すことをやってきた。一方、政治がそれに十分に応えていない場合が多い。例えば一番の問題は定数問題とか、それだけではなくて、かつて基地問題についても憲法訴訟等がどんどん行われたが、統治行為論ということで、これは行政権の問題なのだということで司法は逃げた。一方、それについて行政の方も対応しなかった。とういうことがあるが、それに対して主としてアメリカの議論の影響を受けつつ、司法がもっと積極化して権利救済するのだという考え方を、憲法学者とかはされる。これも必ずしも否定するものではない。司法も大事なんですね。問題は、例えばブッシュ氏が大統領になると、当然最高裁判事を入れ替える。入れ替えるというか、もちろん彼は前からやっているが、指名権を持っている。もしケリー氏がなっていれば、がらりと最高裁判事の顔ぶれが変わるわけで、実際アメリカでは判事が入れ替わると判決が全く変わっている。これは、はっきり研究がされているところで、研究しなくてもだれでもわかるところだが、というふうに考えると司法の判断も中立的なものではないのであって、政治的なものだということを我々は考えなければならない。司法に期待すれば即中立的な判断が出てくるというわけではない。裁判所についても、ある意味党派性というのは長期政権が続けば、出てきているんじゃないかと思われる。だから、司法だけで期待できないんで、そのデモクラシー内部でこの多数者の専制の問題をどう考えて行くかが必要だ。

二つ目に、代表制ということを考えたいと思うが、「代表」、代議士の方をはじめ、このデモクラシーの代表として働いておられるわけですけども、そもそも代表制という誰かが誰かを代表するということがどういうことなのかということをめぐって大きくこの考え方がある。一つは人々の考えを伝えるということだ。メッセンジャーというか人々がどんな意見を持っているか吸い上げてそれをまとめる。だからあくまで主体性は人々の方にあって、政治家はいわばそれを吸い上げる役割なんだという解釈と別な見方は逆に政治家というか代表はむしろイニシアチブを持つんだと。人々はそんなにはっきりしていない。なんとなく漠然としたものはない。だから政治家とか政党が、「こういう争点なんですよ、あなたはどっちを選ぶのですか」、という形で整理してあげると人々は、「なるほど、こっちなのか」と、そこではじめて意見を持つ。いわば意見ははじめからあるんではなくて、作っていくんだということを強調する二つの方向性があってこれが実は次に書いてあるデモクラシーとは人民による決定なのか、政治家の競争なのかというこれが古典的なデモクラシーをめぐる論争というか20世紀ずっとやってきたが、これと関係しているわけだ。この人民による決定、つまりデモクラシーとは結局人々が決めるんだと。そういう風に考えると、政治家とか代表というのは本当は人々が直接集まって決められればそれでいいが、技術的に難しいとか、規模が大きくて難しいとかいうときに、仕方なく代表に頼んでいる、という代表観になるわけで、先ほど言った代表制の解釈から言えば、前者の吸い上げ型の代表観になるわけだ。一方、これは古典的なデモクラシー観、古代以来のものに近い。

それに対して政治家の競争としてのデモクラシー。典型的にはオーストリアの(ヨーゼフ・アロイス・)シュンペーターという経済学者だったが、彼が20世紀の前半にこういう議論をした。政治学に関して。それはどういうものかということ、こういう人民の意思とか、そういうものはないんだ、と。そうじゃなくて、結局デモクラシーで大事なのは政治家とか政党がそういう間で競争が行われていて、そのどの政治家を選ぶかを人民が決定する。どの政治家が信用できるか。これは争点に対して自分の意見に近いかということよりもむしろどの政治家に判断力があるかということを主たる観点として政治家を選ぶ。後は、人々は黙れとシュンペーターは言っている。人民は沈黙して、後は政治家が自由に議論してそこで決定する。これはかなりエリート主義的な感じはするがどの政治かも変なことをした場合には次の選挙ではもちろん審判が、ということなのであくまで人民主義と必ずしも矛盾するわけではない。その意味でデモクラシー論ではないとは言い切れない。

ただ、このことをあまり強調していくと、エリート主義的な政治になってしまう。デモクラシーと言えないようなものになってしまう可能性ももちろん持っている。これは両方とも良い点と悪い点がある。前者の人民による決定ということだけを強調した場合には、これはよくポピュリズムと言われるような、ポピュリズムという言葉もいろいろな用法があって、必ずしも一つではないが非常に流動的意思がその都度パッパと出てきて、それによって物事が決めてられてしまう可能性がある。他方、後者に関してはデモクラシー的な要素は違うものに変質してしまう可能性と同時に、根本的な問題として人々は政治家をどのような基準で選ぶのかというところがある。つまり、シュンペーターの想定というのは人々は政治的な問題について考えられる能力はないんだ、と。だから、特に外交とか難しい問題についてはよく分からない。それは無理だよ。一般の人に聞いても分からない。だけど、どの政治家がどの問題を解決してくれるかはわかる。こういう前提だが、その根拠はよく分からない。人々はなぜどこでどの政治家が、例えば外交問題について考えてくれるのか、なぜわかるのか、底も実はある意味で怪しいと言えば怪しい。そういう風に疑っていくとどうもデモクラシーから離れていく可能性がある。逆に、人民による決定を強調する人々は、当然人々は、個々の政治問題について判断力はあるという前提を立てるわけですが、これももちろん手放しでは分からないという問題だ。そこが一つの大きな対立点であるということをとりあえず申し上げる。

従来その代表機能というのは個々の政治家が担うと同じに政党が担ってきたわけだが、この政党が特に先ほど言った代表機能二つのうち争点整理機能というか結局何が争点なのか、何について人々はどう考えたらいいのかを整理するという側面を持たないと代表制は機能しなくなる。ところが、現在の政党について非常に難しい問題は争点の多様化といっておいたが、かつてどの国でもそうだと思うが、産業化段階というか、争点が二極分解することが言える。つまり産業化の中で過酷な労働とか、労働者が一挙に都市に出て、都市問題が発生、公害問題が発生など、こういうことの中で、それを非常に問題にして、労働者の権利を守ろうという側と逆に産業発展を最優先しなければならないという、そのためには多少の犠牲は仕方がないというこの二つが対立してくる。だから、その他の問題というのが通常その対立軸には埋没していた。割とその政党を支持するかというのはどの政党なら支持できるかで、政党からすれば争点を整理するということは比較的容易だった。要するにある一次元的なより福祉的、より競争的、こういう軸だったところがよく脱産業化社会と言われるが、産業化は終わりがないが、一旦ある程度成立すると、いろんな政治的争点が出てくる。例えば環境問題についてどう考えるかということを、防衛問題についてどう考えるかということ、それから年金問題についてどう考えるかというのはみんな違う論点だ。例えばある政策についてA党はいい、と。しかしこちらの政策についてはB党がいい、とか、第三の政策についてはC党がいいんじゃないかとういうように、一体どの党に投票したらいいのか分からないという。整理をそれぞれ政党はするが、それが必ずしも人々の支持基盤を直結しないという問題点は論理的にはあり得る。日本でそれが起こっているかどうかはもちろんそれは考えなければならない。そういう意味で、非常に難しい時代になっている。つまり、ある代表が全てのあらゆる森羅万象について特に選挙前に分かっていることでも大変ですけど、選挙後に突然突発的なことがいろいろ起こってくるわけだから、あるいは、争点が浮上してくるわけですから、一体どこまで代表機能が働くのかというのが問題になってくるのだろうと思う。

次に第三の問題として市民権をめぐってシティズンシップの問題をいうと少し狭く感じるかもしれませんが、つまりデモクラシーというのはどの範囲でやるのかという問題だ。つまりデモクラシーというのはやはりある範囲内の人間がとりあえず議論してその範囲内についてその集団についての決定を行うというのがある。この場合、従来は、やはり国政、ナショナルなポリティックス、ネイション、国民という範囲、国民の政治が一番主要なものであって他のものは、付随的なんだ。だから例えば地方の問題は、付随的、従属的な問題だ。国政が決めたことを少し薄めたような形でそれに反しない形でやればいい、国際的な問題もこれは付随的とは言わないが、重要な問題ではない。ナショナルな決定、主権的な決定が一番大事で、それと矛盾しない範囲でその国際的な範囲について考えよう。最終的な決定はナショナルなものだ。だからいろいろなデモクラシーがあるのは認められて、またもちろん地方政治もあるし、いろいろな場所であると国連もまたデモクラシーといえないまでも、それに近いものがある。その中で、ナショナル単位、主権国家、これが、結局最も主要な行為主体だというのはあった。しかしどこまで今後維持できるか、これは特に現在問題になってきていますし、今後の問題を考えていく中で、考えなければならない問題である。ちょっと例に挙げたが、沖縄とかあるネイションの中で、ある地域、あるいはある特定の人々のところに非常に大きな問題が偏在しているようなときに、これをなかなかナショナルなデモクラシーを絶対化することで解決できない。むしろナショナルなデモクラシーは絶対大事だという言い方自体がローカルな集団を犠牲にする可能性が出てくる。あるいは国際的なもの、これはもちろん皆さん日々意識されているとは思うが、一体ナショナルな決定がどこまで問題を解決できるだろうか。これはもっとも典型的にやっているのは環境問題だが、例えば、空気をきれいにしよう、水をきれいにしようというときに、空気とか水はもちろんつながっておりある主権国家の国境の中で空気をきれいにしようとしてもその外から汚い空気が来ればこれは、国境があっても空気は来てしまう。あるいは水も当然来てしまう。それは来てはいけないといくら法律を作っても水は来てしまうわけで、これはナショナルな法律整備によって解決できる問題ではないということ、環境というのは、そういう意味でもうちょっと広域的なことが必要になってくる。これは当然なことだ。おそらくヨーロッパは、早く気付いたというか気がつかされた。それは川などが結局つながっている。ライン川とか、みんな国境を越えて流れる。だから当然、上流で汚染が起これば下流は全部来てしまうわけだから、あるいは同じようなことは他のことでも言えるが、そういうことからして、よく言われることに例えばナチスでさえ、川に毒を流さなかった。どうしてなのかということに定説はないが、極めて身勝手な政権でも毒を流して、下流の国をどうこうしようということまではしなかった。それは最低限の公共財についての意識だ。そこまでやると本当にむちゃくちゃなってしまうというのがあったのか、という人もいる。そう考えてみると、私たちにとってみれば環境問題ということで言えば、アジアとかもう少し広い枠組みで東南アジアとかを含めたところで考えていかないと何も解決しない。

それから、もう少し論争的な問題になるが、おそらく安全保障、セキュリティの問題というのも、これも、セキュリティというのは常に相手がある問題というか、相手という言い方はよくないが、周りの人々との関係ということになっていくので、勝手に、例えばある一国がある取り決めを行うということに、何がセキュリティが上がったり下がったりということはないということだ。当然これは最終的には世界全体の問題ですけど、さしあたりはそういうあるリージョン、地域の領域の中でどう考えていくのかということなしにはセキュリティ問題を考えることができない。ところが、多くの方々は、必ずしもそうは考えていない。この主権という言葉が持っているある種の魔力と関わっている。主権というのは16世紀頃からヨーロッパで次第に成立した概念だが、絶対的権力という意味だ。これはかつて王様がもっていた。今は国民が持っているが、いずれにしても絶対的なのだということだ。しかし、世の中に絶対的などというものが本当にあるのかというふうに思うが、おそらくこの主権国家という言い方は、それ以前の状態から変えるときにある力を持った概念なんですけど、今では、やはりミスリーディングな概念だ。主権ということを言うことによって何かいろいろなことを勝手に決められるような幻想を持つ場合がある。そこはやはり攻めていかなければならないのではないか。そういう意味では市民権とあえて言ったのは、我々は当然ナショナルな参政権のことばかり考えていますが、EUのこともあるわけで、それはすぐにアジアで実現できるとは思わないが、やはりデモクラシーの単語というのは、もうちょっと広げて考えていかなければならないのではないか、これがもう一つの大きな問題点だ。そこでそういうことをいうと一つ大きな問題にされるのはいわゆる外国人参政権の問題で、デモクラシーの濃密性と、人々の間の異質性をどう考えるかという論点が出てくるわけだが、そこはシビックヴァーチューという人々の持っている政治的能力とか、考え方、振舞い方みたいなものだが、私は、そういう考え方ではないが、多くの政治思想みたいなことをやっている人はやはりシビックヴァーチューを重視して、つまり人々は民主政治というものを冷静に話し合ってそしてきちっと論点を出して、お互いに感情的にならずに話し合って、そしてきちんと決めて、きちんと守れる、みたいな。実は、文化の共有性を非常に必要としているので異質な文化の人が増えたらできない。むしろそういう点で保守的な、開放的でない議論を展開することが多い。もちろん国民はそのことを共有しているのかというのは問題だが、外国人とかそういう人が増えたり、東アジア共同体みたいな言葉の違う人たちと一緒にデモクラシーやっていこうという話をしたりすると「それは無理だ」と共通の文化がないから無理なんだということを強調する。私もその考え方をとる方々がいることも分かるが、他方やはりちょっと問題を早く決め付けるというふうに思う。つまり、そういう経験をして、それでもやはり難しいというなら仕方がないが、する前から無理だ、というふうに勝手に決めている。ヨーロッパでも我々から見れば同じように見えても、結局いろんな言葉があって、キリスト教だから皆同じなのだというのもかなり乱暴な言い方で、相当いろんな意味で違いがあるにもかかわらず努力しているわけで、我々もいろいろ努力してみて、それで難しいなら難しいで、またもう一回考えてみるという類の問題ではないかと思う。だから、シビックヴァーチューとか同質性をデモクラシーと結びつけるような議論があるが、私はむしろデモクラシーの、冒頭に言った二つのイメージの中で差異を明らかにしていって、いろいろな話し合いの中で共通点を見つけるよりも、違いを明らかにしていくのがデモクラシーの大事な機能なので違いがあるということを十分に認識して、その上で共通項を探すことが必要だろう。

最後に、憲法についてごく簡単に話したいと思うが、この憲法問題というのは今いろいろな形で話題になっているし、これは我々のデモクラシーについて考えるときに、かなり大きな問題だ。一つは言うまでもなく国民主権みたいな観点から言うと、デモクラシーの主体、主権者として大事な機能として自分たちの政治制度を自分たちで決める。だから、憲法を作る、その意味での立憲というのはデモクラシーの重要性から出てくる。こういう筋道は確かにあるということがまず言える。だから私は参考文献に書いてある岩波新書から出た「改憲は必要か」憲法再生フォーラムというところで出した新書があるが、この中でいわゆる護憲派的な方がほとんどですが、私自身はちょっと違う立場で書いているが、私はいわゆる護憲派の方は現在の憲法に関する関心の高まりについて、これはけしからんという態度で対応する方が多いが、これがちょっと無理な点は、今言った点で明らかにデモクラティックな動機ではなくこういったことをおっしゃっている方もいるようだが、国民の中で少しずつ憲法を変えてもいいんじゃないかという議論が出てきた背景には、それなりに出デモクラティックな動機がある。そういう部分がある。全部ではないが。ということを考えた方がいい。自分たちで決めたいというのはある意味健全なことだと思う。だからそこはまず考えたい。

その個別の、例えば9条問題とか変えたほうがいいかどうかについては別途な問題である。そもそもこれは憲法学者の長谷部(恭男)さんという人が前に朝日新聞にも書いているし、他のところでも発言しているが、普通我々が法律改正論をやる時に、法律の何を変えるのかということを決めてから法律改正論をやるが、憲法については何を変えるかという前に憲法改正するかどうかを議論しているというのはおかしいと彼は言っている。これは極めて常識的な議論だと思う。なぜそういう議論になるかというと、先ほど述べたように特に現行憲法の成立経緯について、私はそこもいわゆる護憲派と違って、やはり非自立的な経緯はあったと思うので、そういう中で自立的なものを作りたいということ自体はいいが、問題はどういう内容かということが一つ大きな問題だ。それとともにもう一つだけ今の点と斜めの問題だが、私はコンスティテューションという概念について注意を促したい点は、普通、コンスティテューションというと憲法典のことだと考えがちだが、元々コンスティテューションというのは憲法典というテキストよりも政治体制全体がコンスティテューションであって、これについて記述した文書が憲法典というテキストとしてのコンスティテューションだ。だから先ほどのデモクラシーという言葉がヨーロッパで非常に多義的だということも関係してくるが、このヨーロッパ語でコンスティテューションというと制度とか、実際に行われている政治のあり方もコンスティテューションであり、テキストもコンスティテューションであるという二つの意味がある。日本では憲法というと「憲」という字もそうだし「法」だから1条から始まっているあのテキストそのもので、これと政治は切り離されている概念となっている。私はここに大きな問題があると思っている。これは憲法学者とかいろいり議論してもいつも申し上げているがコンスティテューションとは、決して法的なものだけではない。政治と法がいわゆる癒着している、結合しているのがコンスティテューションである。だからある意味では、法的な問題に収斂すると考えるからいきなりどう白紙の上に条文を書いていくかという話に始まるのだが、そこで、これまでの我々の政治的な実践の中で、どこに問題があって、どこがうまくいっているのか、どこがあまりうまくいっていないのか。それが、そういう意味でのコンスティテューションの中に例えばほころびがあってそれを変えなければならないというときに変えるにあてって、もしテキストとしてのコンスティテューションを変えるというなら、それはそれでもし必要ならわかる。ただ、問題なのはそういうことではなくて、何かテキストとしてのコンスティテューションを変えることを自己目的化してしまって、何かそれを変えることで、現実のほうも全部変わるんじゃないかという。こういうのはやはりテキストに対して過大な要求というか過大な期待を持っているという側面があるのではないか。逆に言うと、私は従来、特に憲法学者というのは逆に日本国憲法が現実政治をコントロールする可能性について期待している。つまり、そういう意味での別のテキスト信仰がある。日本国憲法に対するテキスト信仰があって、それ自体問題だったと思うが今度は憲法を変えたいという人は次の憲法のテキストに対する異常な期待がある。どちらも私は期待しすぎてテキストにそれほど大きな力はない。もうちょっと総合的にコンスティテューションをどうするのかという問題で、それには最終的に憲法を変えなければならないような問題もあるかもしれないが、多くは法整備とかあるいは法整備ですらない法の運用の問題とか様々な行政府の従来採ってきた方針の変更とか更に言えば、様々な民間努力とかで解決できるような問題がほとんどだろう、というふうに論じている。特に、いわゆる新しい権利の問題とか環境権とかいう問題について、先ほどの論点との観点から言えば、やはり、環境権とテキストに書くことが大事なのか、むしろ環境政策を変えて行くことが大事なのか、場合によっては憲法的なというよりむしろ国際的な枠組みをどう作るかという問題なのでそういうに憲法に対しての負荷がオーバーロードになっているのでもちろん必要だが少し下げて総合的に考えた方がいいのではないかと思う。

 

(首藤議員)

 どうもありがとうございました。それではどなたでもご質問、ご意見、それから、一応四つくらい選んで来ていただきましたが、それ以外にも民主主義のあり方とかいうこと、日頃考えておられる方、質問ご意見お願いしたいと思いますがいかがでしょうか。

 

(今野東衆議院議員)

 今日はありがとうございました。今野でございます。日本にも民主主義が本当にあるのだろうかといつも思いながら、あるのであろうという幻想の中で議員活動をしているわけですけど、私は、この日本の会社の中に民主主義はあるのかなあと。おそらくパッと見るとないわけですよね。上司が決めていって、いかにも「話し合いな」と課長か部長が言いながら実は自分の決定権を使っている。そして、時にはそういう企業が選挙行動についても、それは組合についても同じですが、やや締め付けみたいなことを言ったりしている。そうすると民主主義って一体どこにあるのだろうと、わけが分からなくなりまして、今日の先生方のお話は大変興味深く聞かせていただいたのですが、そのあたりのところを、社内民主主義についてどうなっているんだろう、どう考えるのだろうということをお話いただければ、と。

 

(杉田教授)

 それは非常に大きな問題だと思うのですね。非常に重要な問題で前回千葉(眞)先生がラディカルデモクラシーということでお話されたようですが、このラディカルデモクラシーということを唱えている人の中に、法人とか企業内民主主義の重要性を言っている人もいます。そういう方は、大体旧ユーゴスラビアの労働者自主管理とかをもう一回見直そう、うまくいっていなかったわけではないのですが、なんとなく立ち消えになったわけなのですけども、あるいはその他にも、生協とかそういうものをどう考えるのか。日本は比較的生協が成功していると一般的に言われていまして、あれは本当の民主主義かどうかは分かりませんけども、普通の企業よりは一応はそれに近い。ヨーロッパでもイタリアではそういう生協に似たようなものがあるようです。ただ、そういうときによく反論して出てくるのは、例えばエンゲルスの企業論でも、エンゲルスはご存知の通り経営者だったわけなのですね。ですから、彼は企業内に民主主義はやってはいけないと書いています。彼は経営者としての立場だと思うんですが、エンゲルスでさえそういっているじゃないですかと言われますが、現状ではおっしゃるように企業内にもちろんデモクラシーはありません。プラス、従来はデモクラシー的に通用されてきた分野に対しての企業モデルはむしろ押し付けられるという、つまりコーポレートガバナンスと呼ばれるものです。最近では私共がいる大学とかですね、大学とはわりと教授会自治ということで教授会の決定というのは重みを持っていて、理事会に対してもある程度発言権を持っているのですが、今どんどん縮小されまして、いわば企業化しつつある。国立大学もまさにそういうことであります。おそらく大学だけではなく、いろいろなところで今企業モデルが浸透していってしまっている。そういった意味では問題ですが、他方で、皆さん実践されているようですが、従来の企業と違う形態、NPOとかに近いようなものも出てきている。そういう両方の力を与えている。一方では市場的なものが全体を席巻していこうというのと、他方で市場と違うやり方、どちらかというとその多くが民主的なやり方だと思うのですけど、せめぎあっているので非常に一種の正念場というかそこでどっちに動くかという時期に来ているのではないでしょうか。企業内民主主義についてどのように考えるかということについて、もう一つの大きなポイントは、企業は株主総会がデモクラシーなのだ。一応法律上はそういうことで、株主が商法上の社員であって、そして株主総会が行われている限りは、民主的にコントロールされているのだという。そこで総会屋などがもちろん機能しているかどうかは別として。従業員というのは民主主義の主体ではないんだというのがもう一つの反論ですが、人々の実感からして、やはり株主よりも被雇用者はその企業にアイデンティティを持っていますし実際その人の生活が左右されるわけですから。そこにはやはり論理的にいわば一般で言う社員、被雇用者の立場を評価するような、それは法的なものも含めて考えていかなければ無理ではないかと思っています。

 

(首藤議員)

 憲法問題でテキストの憲法と、テキストをどうやって自分のものにしていくかという考え方もあり、そうではなく全体の政治システムが憲法的であるという考え方もあるという話だと思いますが、この間アジア財団が憲法裁判所を作ろうと、先ほどおっしゃった司法積極主義でも消極主義でもない日本の現状を見ると、自衛隊の派遣に関しても「憲法上おかしいじゃないか」と一般の人が訴えられる、そういう考え方があると思います。今朝、名古屋から自衛隊のイラク派遣の訴訟しているグループが私のところに訴状を持ってきて、「こういうのをやってます」と言うので、私も「がんばって下さい」と言おうと思ったんですが、話を聞いているとそれは行政訴訟ではなく民事訴訟で、要するに自衛隊がイラクに派遣されることによって個人がどれだけ損害を持ったかという損害賠償訴訟を起こしている。何でそうなるかというと、そこにいた人はほとんどが弁護士グループの人たちで、行政訴訟だと手続きが厄介で門前払いになるからともかく民事訴訟でいこうとした。私はそこで「そんな態度だから日本は変わらないのだよ」と言って大激論になってしまいましたが、お仲間の山口二郎さんも憲法裁判所を作るのに非常に否定的ですが、私はそのときに山口さんの意見に対してドイツの憲法裁判所の長官をやっていた女性が、「そうじゃない。ドイツでも憲法裁判所を作って、普通の人が憲法裁判所に普通の政府がやっていることを憲法違反だと言って訴えられる」と。そういうことが憲法と国民の距離をものすごく近づけて憲法を生きたものにさせたと言っていて、なるほどと思いましたが、実際に憲法を本当に生きたものに国民にさせる工夫に対してアイディアはお持ちでしょうか。

 

(杉田教授)

 今のも重要な問題で、憲法裁判所はドイツも確かにそうで、最近話題になったのは韓国ですよね。例の大統領の弾劾問題で急に脚光を浴びまして、この前ある韓国の人に会ったら、あの後皆何でも憲法裁判所に訴えるようになってしまったと。渋滞が多いと言って憲法裁判所に訴えたといった笑い話もありますが、ただこれはもちろん悪いことばかりではなくて要するにどういう制度設計をするかという問題で憲法裁判所自体は良い悪いというふうにはなかなか言えないと思います。先ほども少し申し上げたように、最高裁がかなり前から消極的な態度ですね。ですからあらゆる問題について判断を回避してますので、それは国会に丸投げしていると一応形の上ではなっていますけど、もちろん国会ができる定数の問題など、国会がしかるべき対応をする問題と現にある程度されているわけですが、憲法裁判所が例えば基地問題などについて、誰かが基地が良い悪いなどという問題について訴え、基地は必要だという判決が出た場合にその後どうするかという問題と、逆に憲法裁判所が米軍基地の存在は違憲であると判決を出した場合、国会や内閣はどう受け止めるかを想像しにくい問題を含んでいる。ドイツの実例を教えていただきたいんですけど、極めてそういう重大な問題についてそのときの政権と裁判所の判断が食い違った場合、どのように事後処理するのかということがかなり大きい問題になってくると思うんですね。あともう一つは憲法裁判所の構成の問題です。どういう方がなるのか。現在の最高裁判所に屋上を置くような形ですとあまり意味がないので、私は一概に否定的ではなくて制度設計の仕方によっては機能すると思っています。

 

(水島広子衆議院議員)

 衆議院議員の水島広子でございます。今日は本当にありがとうございます。二つ大雑把な質問をさせていただきたいんですけど、今現在、各国にある政治システムの中で、私はわりとうまく動いているのではないかと思うのは北欧タイプの例で、多数の政党が乱立していて、そのうちのいくつかが連立政権となっていて、ただそれが国会において半数に達していないために必ずしも政府提出の法案を通そうとすると、国会で野党の一部を取り込んで何らかの修正をしなければ成立していかない。これはわりと国会がきちんと機能している一つの例かと思いますが、それは一面しか見ていないのかもしれませんが、今比較的実質的な議論が行われているという意味では一つの例かなと思いますし、比較的投票率も高いですし、そういう意味では選択肢がたくさんあることによってある程度選挙における争点が先ほどのAとBとCというのがわりとどこかに集約されやすいのかなと思っていますが、そのような政治システムについて先生のご意見を伺いたいというのと、それからもう一つは、今の日本の現状はこのような議論以下という気がしまして、一つはあまりに投票率が低いということ、全国で見ますと投票率の高い地域はわりと従来型のコミュニティが残っているところで、逆に言うと自民党の締め付けが効く地域が投票率も高くなっていて、締め付けがなくなって、自由なコミュニティ、コミュニティの形があまりなくなってしまっているところになると、締め付けが効かないけれども投票率も低いというような感じになっていて、いかにして有権者の政治への関心を高めるかということ、参加の意識を持たせるかということが重要なテーマだと思っていますが、政治があまりにも変だから投票率が低いという側面ももちろんありますが、例えば住民投票をすると100%投票するかというとそうではない。身の回りに起こっていることについての意思決定に参加していくというような動機付けが何らかの形で必要だろうと思っていますが、日本のデモクラシーというと以前の状態にあるような気がしている日本の現状についてどのようにしていったらいいかというようなあたりのご意見を伺えればと思いますので宜しくお願いいたします。

 

(杉田教授)

 どうもありがとうございます。前半の、まず北欧モデルは政治学でも1970年代終わり頃から非常に強調されて、いわゆるコンソシエーションデモクラシーとか言われて、日本では篠原一先生などかなりそのグループの方々が紹介されました。その当時は社公民時代路線といろいろあって、いろいろな政権交代を考えていく中で比較的小党をどうまとめるかという歴史的意義はありましたが、最近言われていることは、必ずしもEUに入らない理由の一つは、自分たちがやってきた政治体制を守りたいということがあると思いますが、ベルギーなどこのモデルが一部機能しなくなっている。EUに入ってしまうとせっかく国の中で作ってきた慣行が全部終わりになってしまい、終わりとまでは言いませんが、EUの基準が入ってきてしまいます。従来北欧モデルで比較的うまくいっていたというのは労使協調的な政策決定だと思います。例えばワークシェアリングのように比較的給与は下げてもいいから雇用を上げようという決定を労働界と産業界と政治が三つ巴で決めるみたいですね。しかしEU基準の問題になってしまうとそういうことができなくなってしまうということで、実はある意味でEUの比較的先進的な国にネガティブな効果を持つ。だから北欧の国では必ずしも入らない国もあるのだと思いますが、従来日本はそれとの関係で言うと、あまりにも自民党ですとか使用者が強そうなので、そういう北欧型の言わばコンセンサスを作る前提としての勢力間の均衡はあまりないと思われている。そこがやはり大きな問題ではないかと思うのですね。ですからやはり政党の間で、いろいろ連携を模索していくというのが必要ですが、それを支える基盤をどこに求めていくかということですね。難しい問題で、私も北欧モデルにシンパシーを持っているんですけど、やはり一つは労働団体がこういう状況では非常に難しいのではないかと思いますね。それから後半の質問は非常に重要な問題で、よく皆問題にされますが、アプローチとしては二つに分かれている。一つは人々は関心を持たないんだからもう人々に期待せず勝手に決めるということで、これは実際にそういう考え方を持った方が政治家の中にいるかもしれませんが、政治学者の中でもかなり先ほど言ったシュンペーター主義的な考え方で、もう白紙委任的に人々はとにかく「エンドースしていればいい、後は政治家がやります」、具体的には「ある政党がやります」とかそういうことを強調するデモクラシーをある意味縮小させていこうという方向と、もう一つは逆に今何で人々は来ないのかというと中途半端な参加だからで、もっと面白くすればみんな来るのではないかという、むしろ今選挙とかそういう隔靴掻痒の言葉からなので、むしろもうちょっと機会を増やせば来るはずだと言ってもそう簡単には直接投票でさえそんなには行かない。それからいろんな政治的な議論の機会を設けましょうと言っても、皆さん忙しいというのが事実です。それからそういうときによく出てくるのが、ネットを使おうということですね。ネットには悲観的な人が非常に多くて、確かにさっき西村(智奈美衆議院議員)さんにもうかがった高さんの選挙とかでもネット、主にどういうネットが分かりますけど非常に誹謗するようなネットとかありますので、そういう掲示板的なネットも問題なんですけど、だけどだんだんとやっていけば積み重ねていくと人々のリテラシーとか「こういう発言をするとちょっと」というのがあえてポジティブに言えば出てくるんじゃないかと思います。どうしようもない発言者もいますが、従来ああいう匿名メディアは非常に危ない面も持っていますが、匿名性が全て悪いとは必ずしも言い切れない。選挙というのは無記名ですからある意味匿名です。記名投票ではないわけです。記名投票でなければならないとは必ずしも言えない。ですから質の問題になってくる。そこで先ほどのシビックヴァーチューみたいな問題が起きてきて、これも当然我々も「どうすればいいんですか」と聞かれれば、それはやはり通常教育とかに問題を下ろしていきます。例えば中学、高校の教育などそういうところでもう少しと一応言うんですけど、実際今だって中高で政治経済とか先生方が教育しているわけですよね。そこが劇的に変われるとは思えない。ただ、先ほどの話の関係で希望をつなぐとすれば、人々は何も政治的な問題に全く関心がなくて極めて私的な動機だけかというとそうではなくてそれは現にニュース番組とかみんな見ているわけなんですよね。それなりにこちらのニュース番組は見たくない、こちらは見たいとかですね、あるいはこの人のコメントはいいとかいうのはみんなあるわけですから、だから全く受動的というわけでもない。ただそれがその先までなかなかつながらないということで、私はさっきちょっと政党の代表機能についていろいろ課題のことばかり申し上げましたけれど、政党とかその他のグループが争点をはっきりさせていただくと当然人々は盛り上がる。そのあたりに期待しているということです。

 

(藤田一枝衆議院議員)

 今のお話を聞いていて、国民的コンセンサスとかですね、そういう言葉が飛び交っていて、実は私は法務委員会で質疑をやっていて、国民的合意と国際的動向をというのに振り回されていましたが、この今の国民の政治意識と現実の政治がどう結びついていくのかが難しいなあ、悩ましいなあと思うばかりで、何かしスキッとしたことがないかなと。直接民主主義ということを前回千葉先生の話を聞いて久方ぶりにそういうことも思っていたのですが、それとてなかなか現実では難しいという状況の中でその仕組みというのが作れるのかなあと思い悩んでおります。

 

(西村智奈美衆議院議員)

 新潟にいたものですから東アジアの共同体というものにずっと関心を持っていまして、ただEUは今ほどの北欧型を経てEUという枠があったり、今よりも対話の蓄積がある中でようやくああいう形になってきたりと思いますけれど、東アジアでは私が見て今の所うまくいっているのは中国だけだと思います。中国国内では異質性を持った中での政治体制のようなものがありますが、仮に東アジアでどう実現できるかということになると、日本はとにかく今異質な人が増えたらデモクラシーは展開できないとか、そういう議論の声が大きくなってきているようですから、まだまだ道のりは遠いのかなあと感じました。

 

(杉田教授)

 ありがとうございます。お話のようにやはり現状は比較的保守的な人の中には、「人々に不満がないからあまり参加しないんだ、だからいいんだ」とおっしゃる方もいる。私にはそうは見えない。やはり不安もありますし、おそらく人々の中にこうしたらどうかというのがあると思います。ただそれはなかなかチャンネルがなくて伝わっていないというのが現状だと思う。やはり一つは前々から言われていることだが、この前のアメリカ大統領選挙もいろいろ悪い点がありますけれども、それなりに盛り上がっているわけなんですね。これはやはり政党が大衆政党になっており、これも良い点悪い点があるが非常にローカルな支部から始まり、人々が政党帰属意識を持って自分は民主党員だとか共和党員だ、とかですね。一部の政党を除けばこういうことが日本ではあまりにもなくて政党に対する距離感がある。ですから今後そこがもし政党を軸にして変えていくのであれば、一つは人々が政党に対してもうちょっと身近な関係を持てるような、一時党員拡大のような事を自民党も含めてやっていましたけど、その後あまり熱心ではなくなった。これは人々が嫌がったというよりもおそらく政治家の中でいろんな問題が起こるという判断があったのだと思う。例えば民主党がもうちょっとそのあたりを考えるというのは一つあるのかなあと思います。これは一つの思いつきではありますけれど。それから西村さんがおっしゃった問題は確かにあって、中国も私もそれはいろいろウイグルとかですね、強圧的にやっている面もあるのでうまくいっているのかどうかわかりません。それは別としても、なかなか日本と他の国々の対話が進行していないのは事実である。しかし、このような問題はおそらくヨーロッパでも非常に長い間かかったことですから、方向性としてはよほど排他的だとすれば、将来的には対話を深めていくのだろうと皆思っているだろうと思うのですね。日本でも特に最近いい傾向として韓国とはかなりいろんな学術交流も含めて人の動きが出てきまして、北朝鮮とは難しい問題がありますけれども、しかし韓国と北朝鮮は近いですから韓国経由での動きもありますし、台湾と中国の間も非常に難しい関係ありますけれども、しかし中国もプラグマティックなところがありますので、決して将来まで今の対立路線で行くかどうかは分からない。ですから、少し長期的に考えていきたいと思います。

 

(首藤議員)

 ありがとうございました。皆さんもお忙しい中ありがとうございました。最後のコメントの中で一言私も言いたいのですが、アメリカ大統領選で、これは大変ショックな傾向で、世界の人はほとんどケリーに投票したいと、ブッシュを終わらせたいと思っているにも関わらず、それが終わらなかったということを考えると選挙技術というものがいかに政治を創っていくかということを考えますし、それから、そこの国民に自分たちが置かれている状況を客観的に教えるシステムというのはないのだということを非常に愕然とする思いで見ているという感じがします。今日はそういうことでデモクラシーを考えるということで、今日はこういう視点がいろいろある、と。我々がいろいろ知っているはずの一番基本的なところが全然分からないし、お互いに討議したこともなかったということを杉田先生に基本的なところで話していただきました。また次回別の視点で考えていきたいと思います。どうもありがとうございました。先生、どうもありがとうございました。


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