Bartok
(1881-1945)

組曲 第2番 作品4のb (1941)
 バルトークは自然と文化、そして時代と社会との深い関わりを音で語った廉直な20世紀を代表するハンガリーの作曲家である。
 20才頃までの彼は、ブラームスを崇拝し、ワーグナー、リストを研究するが、作曲家として新しい可能性を見いだせないまま、優秀なピアニストとして主に活動していた。
 1930年より、彼は自己の妥協のない純粋さを農民の伝統の中に求め、1905年、コダーイが民謡の調査を始めているのを知り、フォノグラフ(採音機)を携えて、農村をまわり、本格的に民謡の採集を始める。その活動はハンガリーからスロヴァキア、ルーマニア、トルコ、アラブに及んだ。

 この「組曲作品4b」は「オーケストラのための第二組曲」として1905〜07年に作曲された。
その後1921年、41年に二度改訂している。2台ピアノ版には、再婚した妻(モーツァルト弾き)との演奏旅行のために編曲された。
 彼は妻と共に、戦争とファシズムへの怒りから、1940年、アメリカに亡命する。すでに発病していたと思われる白血病と、貧困に対し、多くの音楽家の援助が差し伸べられるが、1945年9月26日、絶筆となった「ピアノ協奏曲第3番」の完成を、あと17小節残して、病に没す。

 第1曲〈Serenata セレナータ〉のテーマの拡大、第2曲〈Allegro diabolico 悪魔的アレグロ〉のリズムと、ベートーヴェンを思わせるフーガ、第3曲〈Scena della Puszta 平原の風景〉の冒頭ソロの農民楽器タローガトーの即興のようなパルランド・ルバート、第4曲〈Per finire  終わりに〉の「田園」の終楽章を思わせるテーマ−そこには、大地に根ざす樹林のように、すべてを吸い上げ、同化していこうとする彼の姿を見る。(Y.C)


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