Schubert
  (1797-1828)


幻想曲 ヘ短調 D940  (1828)
  フランツの「さすらい人」たる由縁は曽祖父、祖父が南モラヴィア出身であり、ようやく父フランツ・テオドールの代になって教師としてウィーン郊外に定着したというウィーンとの関係から始まる。母もシュレジア出身。

 家庭アンサンブルを通して父より音楽の手ほどきを受け、宮廷礼拝堂児童合唱団(楽長はサリエリ)、寄宿制神学校(コンヴィクト)に入る。才能さえあればどの階級の子供も入れる官立エリート校で130名ほどの寄宿生はギムナジウムまたは大学生だった。ここでの最良の教育と友人との交わりはフランツの生涯を支えるものとなる。

 変声を迎え5年間のコンヴィクトでの生活を終え17才になったフランツは、父の学校の助教員となる。・・が天職は作曲−作品はすでに90曲を数えていた。彼の一生を貫く”報われず愛する孤独のさすらい人”のライトモティーフは「糸を紡ぐグレートヒェン」「羊飼いの嘆きの歌」に現れている。わずか17才にしてである。ゲーテ、シラーなどの詩によせた歌曲は翌年1815年(18才)1年で145曲を数える。(「野バラ」「さすらい人の夜の歌」など)

 19才、交響曲第4番、5番、「魔王」「子守歌」など。
 20才、教員をやめ友人の下宿に寄寓、作曲に専心する。自由な生活の中で「死と乙女」「ます」などの名曲とともに友人の詩による歌曲も生まれる(「楽に寄す」など)。特に数年間起居を共にしたマイヤーホーファーとの間には多くの優れた歌曲が残された。友人たちとの集いは音楽では〈シューベルティアーデ〉、文芸・芸術を中心とした集いは〈カネヴァス(Kann er was ?)の夕べ〉と呼ばれた。

 25才、「交響曲第8番〈未完成〉」「さすらい人幻想曲」「ロザムンデ」「ピアノソナタD784」など。
 26才、「美しき水車小屋の娘」(ミューラー:詩)。シューベルティアーデ、また音楽教師として二度のエステルハージ伯爵家滞在を通して多くのピアノ連弾曲が生まれる。「ピアノソナタD845、D850 」。

 29才、父がウィーンの市民権を取得。「弦楽四重奏曲 D887 」。
 30才、3月ベートーヴェン死去。「冬の旅」(ミューラー:詩)、「ピアノトリオ」2曲、「4つの即興曲 D899, D935 」。

 31才、彼最後の年。28の作品を残す。1〜4月、ピアノ連弾「幻想曲 ヘ短調D940 」
今までの彼にみられなかった力強さ、崇高な深みと大きさをもち、リリックなメロディーはより神々しく澄みきってゆく。エステルハージ伯爵令嬢カロリーネに献呈。「3つの即興曲 D946 」「大ハ長調交響曲」「ミサ曲 D950 」そして「白鳥の歌」(レルシュタープ、ハイネ、ザイドル:詩)。3曲の「ピアノソナタ」D958, D959, D960 。10月「岩上の羊飼い」。
 11月19日 死去 − 「地の上に天あり」。(Y.C)


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