Brahms
(1833-1897)


◆2台のピアノのためのソナタ 作品34b ヘ短調  (1862-64)
 まず、伏線となる流れを追ってみたい。
 ブラームスは1853年5月下旬、ハノーヴァーで2才年上ながらすでに19世紀を代表するヴァイオリニスト、ヨーゼフ・ヨアヒム(1831-1907ハンガリー出身)と出会い、援助を約束される。
 
 同年9月30日、デュッセルドルフに晩年のシューマンとクララの家を訪ね、ブラームスはシューマンに「自分と同じ魂の夢想」を、シューマンはブラームスを「ヨハネスは真の使徒」と賛美を贈り、『新しい道』と題するエッセイで世に送り出す。1854年2月27日、突然シューマンがライン河に身を投げる。神経障害から錯乱に陥ったシューマンはその死まで精神病院に収容されてしまう。クララを慰めるうち、「尊敬する婦人」から「愛するクララ」へ・・・SieからDuへ・・・と変化していく。このときクララ34才、ヨハネス21才。のちにクララは「私は彼の若さを愛したのではありません。はかない慰めのためでもありません。私は彼の凛とした精神、すばらしい資質、彼の気高い心を愛したのです。」と、自分の子供たちに記している。1856年、シューマンの死によって、彼の激情は封じ込められる。

 1858年、ゲッティンゲンで名器アマティのような声をもつアガーテ・フォン・ジーボルトとヨハネスは恋に落ちるが、婚約を公表する段になって、またもやヨハネスは決断を下せなかった。「・・・貴女を僕の腕の中に抱き、口づけし、貴女を愛しますと言うために戻っていくべきかどうか、すぐにお返事をください。」
 1859年秋、「多くのことがこの一年で変わりました。・・・私は音楽に恋しているのです。」
 1862年、アガーテの件以来のクララとヨハネスの不和はすでに修復されていた。その夏、ヨハネスは彼女の家にほど近いミュンスターに滞在した。

 このピアノ・ソナタを最初は弦楽五重奏曲として作曲し、翌63年には私的な初演を行うが、音楽の内容の濃さや密度が弦楽器には向かないと、ピアノ2台のために改作する。64年4月17日、ウィーン学友協会ホールにて、リストの弟子で夭折した天才ピアニスト、カール・タウジヒとヨハネスで初演。その後、クララの忠告とヨアヒムの詳細な助言で「ピアノ五重奏曲 作品34 」に改訂される。

 このピアノ・ソナタは独立した曲として、作品34bの作品番号が与えられている。
    第1楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ
    第2楽章 アンダンテ・ウン・ポコ・アダージョ
    第3楽章 スケルツォ
    第4楽章 フィナーレ  ポコ・ソステヌート−アレグロ・ノン・トロッポ
◆ハイドンの主題による変奏曲とフーガ (1873)
 ハンブルグの北100kmの貧しい町で育ったブラームスは、シューマンの音楽評論誌で「新しい道」と題するエッセイ(シューマン最後の社会的発言)により、熱烈な賛辞を受け、世に出ていく。1871年にウィーンに移り住み、72〜75年ウィーン学友協会芸術監督に就任。当時習慣だった「同時代の音楽」ではなく、17〜18世紀の古い音楽にプログラムの大半を割いた。

 「ドイツ・レクイエム」「ハンガリー舞曲集」「ピアノ協奏曲 ニ短調」などの成功と、自作の出版による収入で十分に生活できたが、決して華美な生活を望まず、若い芸術家への支援やさまざまな寄付を名前を伏せて行っていた。“自由に、しかし孤独に”創作活動に打ち込んだ。

 1873年、クララ・シューマンとの不和のため、二人でよく過ごしたバーデンバーデンを避け、シュタンベルク湖で夏を過ごした。ブラームスは思いの外この地を気に入り、この変奏曲と同時に、弦楽四重奏曲を2曲、作品59の歌曲集の大半もここで生まれた。

 テーマはハイドン:エステルハージ候の軍楽隊のための「フェルトバルティーエン(野外組曲)」第6番第2楽章のテーマ「聖アントニーのコラール」で、古い巡礼歌と思われる。

 8つの変奏とパッサカリア風(バス・オスティナートによる17の変奏とコーダ)フィナーレから成り、彼の得意とする変奏曲様式が技法を二重三重に組み合わせて、緻密で無駄のない表現に高められている。

 最初に2台ピアノ版、その後オーケストラ版が出版されたが、若干のテンポ表示に違いが見られる。この曲以降、大規模な管弦楽曲が2年に1曲の割で生まれている。(Y.C)
演奏時間:約19分


トップへ
戻る