Dvorak
(1841-1904)

◆ボヘミアの森から 作品68
◆スラブ舞曲集 第1集、第2集
 プラハの北30km、ネラホセヴェス村に肉屋を兼業する居酒屋の長男として誕生。
 父はチターの名手、親戚も音楽好きで有名だった。モルダウといっても狭い河のほとりには麦やトウモロコシ畑、小さな森、平野が広がり、こののんびりした豊かな風景は彼の人生の中核をなしていく。ヴァイオリンを習い始めたアントンだったが、13才で肉屋とドイツ語の修行に出され、職人資格を取る。しかし、この専門学校でドイツ語教師かつオルガニストのリーマンに出会い、音楽才能を開花する。

 16才でプラハの音楽学校へ行き、卒業後はヴィオラ奏者としてリスト、ワーグナーを知り、ベートーヴェン、シューベルトを崇拝することになる。
 この頃からの12年、生活は貧しかったが世に出ることのない楽譜を丁寧な筆跡で埋めていた。作品1となるのは1861年「弦楽五重奏曲第1番」。室内楽、オペラも書くが、2作目オペラ「王と炭焼き」も台本に恵まれなかった。

 1871年(29才)、初めて彼の作品が聴衆の前で演奏される。
 1873年、合唱曲「賛歌」が初演され出世作となる。アンナ・チェルマークと結婚、生計は相変わらずだったが1875年、「交響曲第3番」をオーストリア文化省に提出、ブラームス、ハンスリックらに認められ奨学金を得る。アンナとアントンは末永く幸せな夫婦生活を送ったがこの頃相次いで3人の子供を亡くす。敬虔なカトリック教徒のアントンはその深い悲しみを聖母に相重ね、チェコ音楽最初の宗教曲「スターバト・マーテル」を作曲。
 ブラームスの推薦でジムローク出版の契約作曲家となり「モラヴィアの調べ」、1878年「スラブ舞曲第1集」が出版され大好評。のちに「同第2集」が追加される。共に民謡の特徴を生かしつつ、彼オリジナルのメロディーが自然にあふれている。

 1880年、歌曲の頂点をなす「ジプシーの歌 作品55」を作曲。ボヘミアの抒情詩人アードルフ・ヘイドゥークがドイツ語で書いた7篇の詩は音楽と自由に対するジプシーの愛がテーマとなっている。ピアノ・パートにはツィンバロン、トライアングルの響きが、歌にはジプシーとボヘミアの融合がみられる。
 「交響曲第6番」にはチェコ民謡の情熱が込められていると絶賛され、満たされた忙しさの中、ジムロークに次の連弾曲を依頼される。田舎大好きなアントンはボヘミアの森を旅し、義兄の地所ヴィソカーが気に入り、滞在中に着想されたのが「ボヘミアの森から作品68」。リストの「巡礼の年 第1年 スイス」、スメタナの「交響詩〈わが祖国〉」をモデルに自分の愛する村の風景を暖かいまなざしで描写している−糸車の回転、少女のはじらい、心地よい自然、あまり怖ろしくない魔女たち、幼い頃の遊び、踊りetc.・・・
 この曲の出版の謝礼で、ここヴィソカーに別荘を購入。村人と肩をよせ、庭仕事に作曲に意欲をみせる。「交響曲第7、第8番」、オラトリオ「聖ルドミラ」「レクイエム」「ピアノ・トリオ〈ドゥムキー〉」。

 1981年、プラハ音楽院教授となり後の娘婿ヨセフ・スーク、ネドバル、ノヴァークらを育てる。
 1892〜95年渡米、アントンはニューヨークでも生活習慣を変えず、熱狂的な蒸気機関車好きに大型蒸気船が加わった。「交響曲第9番〈新世界より〉」「聖書の歌」置きみやげとなった「チェロ協奏曲」。
 1895年4月プラハに戻り、ヴィソカーの別荘とを行き来する。自然を満喫した生活に幸せを感じる。この後は「交響詩」と「オペラ」の作曲に専念。
 1900年、オペラ「ルサルカ」−〈人魚姫〉〈ウンディーネ〉の影響をみるこの水の精霊を善、人間は利己的と見ていると思われる、溢れるメロディー−ウィーン宮廷歌劇場総監督マーラーは上演したいと交渉、がなぜか流れてしまう。
 1904年、肝臓病で寝込む。この春《第1回プラハの春音楽祭》が1600人の大合唱による「聖ルドミラ」で幕が開き、アントンを誉め称えるが、彼はベッドの中だった。
5月1日、脳卒中にて永眠。
 " 彼ほどに人生に対して健康的で前向きな姿勢を示した者はいない" −マルティヌー−(Y.C)
Barenreiter(ボヘミアの森から)
Schirmer(スラブ舞曲集)


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