このテキストを書くきっかけとなった 大誤氏との会話(コレを見ると何が言いたいのか良く分かると思います。)
少々「ゲーム」から離れるのでご勘弁。
小説、という分野がある。
それはとてつもない人気を誇っている。
その人気はどこからくるのだろう?
小説というのは、文字だけが全てを表現している。
ゲーム等と違い、目に訴える要素が
まるで無いと言っても過言ではない
(挿絵などはあるが、それはあくまで装飾程度)。
小説というのは、文字を通して読者に訴えかけるもの。
娯楽の一つである「遊び」という要素が無い。
それでも人気があるのは、読者が想像する余地があるから。
むしろ、想像する余地が全てと言ってもいいかもしれない。
小説を読むと、その内容を「独自の解釈」によって理解しようとする。
その「独自の解釈」が「想像」であり、小説の全て。
「想像の余地が無い程ガチガチに固められたストーリーは、面白みがない」
誰かがそんなことを言った。
まさにその通りで、小説には「登場人物に成りきれる」といった部分がある。
「この人物は今こういう心情」というのは、大部分は読者が想像するものである。
読者が想像することによって、読者の気持ちが登場人物とシンクロし、
様々な感動を呼ぶ。
決して「この人物の心情がこうだから、
私はこういう気持ちじゃなければならない」では、ない。
ある人物と、この様な話をしたとき、
「プレイヤーに訴える要素が少ないほど、プレイヤーが想像する余地が広がる」
と言った。
その要素というのは、
グラフィック、音楽、文字、感触などといったもの。
要素が多ければ多いほど、プレイヤーに状態を強制する部分が大きくなる。
強制した想像は、面白味を感じることは少ないだろう。
小説が抽象的だから、読者はその場面を独自に想像でき、それを感じる。
あくまで想像するのは自分で、そして自分が主人公だから。
ゲームでは、グラフィックという要素によって、
ある程度「想像したカタチ」を提供する。
しかし、想像したものを提供された時点で、プレイヤーが想像する余地が狭まる。
ここに、「3つの目、4つの耳、7つの手、とても長い胴のバケモノ」が居たとする。
あなたは、このバケモノをどう想像するだろうか?
ゲームでは、このモンスターを「グラフィック」という要素で表現する。
そのおかげで、プレイヤーは簡単に「このモンスターはこういう姿」と認識できる。
しかしその反面、そのモンスターを想像する余地がなくなってしまう。
小説では、この「3つの目、4つの〜」と、文字だけでしか表現しない。
しかし、その抽象的な表現だからこそ、「読者が作る世界」がある。
そのバケモノの解釈は千差万別、十人十色。
絶対に「共通の想像」が存在しない。
小説は、ゲームで省かれる「人が想像する時間」が、楽しいのではないか。
ゲームでよくある、「落としどころ」が、小説では人さまざま。
「落としどころ」でさえ、読者が想像する。
それは小説という分野が、「作者の想像した物語」と、「読者が想像した物語」によって
成り立っているからではないだろうか?
ゲームの話に戻すと、
最近のゲームには「プレイヤーが想像する世界」が薄くなっている気がする。
決してガチガチに固められた物語だからではなく、
抽象的な表現が少なくなってしまったからかも知れない。
最近のゲームは、「作者が描いたストーリー」を、
「そのまま伝える」という傾向が見られる。
もちろんソレが悪いコトではなく、むしろ正しい方向といえる。
しかし、「頭に残るか?」と問われると、一丸にYESと答えるのは難しいだろう。
元々創作というのは、自分が想像したものを他の人に伝えるということ。
そして、伝えられた方は、その意味をさらに「想像」して認識する。
例えば、「1+1は2」と伝えられたら、
「1に1が増えて2」と想像する。
認識というのは、想像という過程があって初めて成立する、と考える。
想像するには、「抽象的な部分」が必要ではないだろうか。
近頃のRPGには「抽象的な部分」が少ないからだろうか、
「想像」という過程を省いた認識が多い。
「これはこうだからこう」と、ガチガチに固めたシナリオをよく見かける。
ガチガチに固まったものには、想像の世界が無い。
想像することが出来ないと、より深く理解し認識することが出来ない。
そしてより深く認識すればするほど、後に待つ「オチ」を更に感動的に体感できる。
ちなみに、もっとも簡単に抽象的な表現として、
「伏線」がある。
これは元々「オチ」がどういう理由でこうなったか、を間接的に表現する手段。
伏線をプレイヤーが独自に解釈し、想像する。
ここにあえて伏線の「オチ」を明かさないまま終わるシナリオがあったとする。
読者(orプレイヤー)は、一度シナリオを読み終え、ひと時の感動にひたる。
その後の読者の反応は、ある程度区別できる。
ひとつに「そのまま、その感動にひたり続ける」
これは映画などによくあるはずだ。
ふたつめに、「そのシナリオを更に解釈する」
みっつめは、ふたつめから連鎖するであろう、
「解釈しきれなかった伏線を解釈する」
これによって、読者はそのシナリオにのめりこむわけである。
解釈=想像は、人間に苦痛をもたらす事は少ない。
ましてや、自分から進んで想像をはじめたことだ。
想像すればするほど、そのシナリオは心に残る。
心に残るシナリオを作りたければ、ある程度の抽象的な表現は避けて通れないといえる。
うまく表現できれば、後は勝手に読者が想像し、勝手にのめり込んでくれる。
これほどおいしい事はないだろう。
もちろん抽象的な表現が少なくても名作と言われるシナリオは書ける。
しかし、それには多大な努力を強いるだろう。
まず、いいシナリオを書きたいなら、
うまい伏線の敷き方、それの消化の仕方、それの落とし方
を学んでは如何だろうか。
そして適度に伏線の未消化を出せば、後は読者が想像してくれる。
他人任せな部分もあるだろうが、
心に残すにはまず想像させなければいけないから。
back