あたしだけを愛して、なんて我が儘なんか言わないから。












 「んっ・・・・・・・・・・ぅん・・・・・」

 脳天まで響く官能的なキスに、思わず声が出る。
 背中に回した両手に力を込めて、薄いブルーのYシャツの上から思い切り爪を立てる。
 相手は一瞬苦しそうな呻き声を上げたが、キスを止めようとはしない。
 それどころか更に深く舌が入り込んでくる。



 口を開けた覚えなんかないのに。
 貴方はいつも勝手に、いとも簡単にあたしの口を開けてしまう。

 拒むことだって出来るのに。
 「嫌いだ」と言って、抱きしめてくる腕を払うことだって出来るのに。





 腕を払って拒むことも、「嫌いだ」って言うことも出来ない。

 出来ないの。







 「工藤先生、プリント集めてきました」

 学校では優等生。
 教師と生徒の関係を、仮面を被ってやりこなす。



 「あぁ・・・・・・ありがとう」
 大好きな低音の声を聞いても、その喉元に唇を這わすことは出来ない。

 だから代わりに、偶然を装ってそっと腕に触れる。





 ねぇ、先生。
 今日もあたしを愛してくれている?










 「新っ・・・・・・・工藤先生」
 春の花のように、柔らかく甘い声が響く。

 この人が彼を「新一」って呼ぶのを、いちいち気になんかしてられない。
 間違えて呼ぶのはわざとじゃない。
 解っている。
 こういう人なんだって、頭では解ってる。



 だけどそれが本気で憎たらしいのも事実。





 彼の愛を一身に受けていながら、それに気づかない彼女が憎くて堪らない。
 結婚をしても旧姓のまま、彼と同じ職場で仕事を続けている彼女が。







 「袖ぬるる露のゆかりと思うにも なほうとまれぬやまとなでしこ」

 工藤先生は古文の先生。
 ちょっと低めのバリトンで和歌を詠み上げるのを、目を閉じて聴く。



 ―貴方の袖を濡らした涙の原因がこの大和撫子だと思うにつけても、
 やはりこれを厭だと思う気にはなれない。



 「この歌は不義の子供が生まれた後に、思い託して交わした藤壺の歌だ」

 撫子の花を贈ってきた光源氏に対しての。





 光源氏にはたくさんの愛人がいる中で、ただ一人本気で愛した人がいた。
 義理の母でありながら、ただ唯一の永遠の人。
 罪だと解っていて、それでもエデンを求めて止まなかった。





 ●






 「・・・・・・何で結婚なんかしちまったんだよ」

 聞き覚えのあるその声に、足を止める。



 薄く開いた空き教室のドアに、ぴたりと耳を寄せる。
 声だけで誰だかすぐ解る。
 そして隣にいる人の存在も。





 「・・・・・新一を、待てなかった」
 「ごめんなさい」と、小さく呟いた彼女の声。



 二人は昔からの幼馴染で。
 あたしが作った薬で小さくなってしまった彼が元の姿に戻ることを、
 待てなかった彼女は結婚してしまった。

 あたしは罪滅ぼしか、宮野志保に戻ることをしなかった。
 元の工藤新一に戻った彼は古文教師となり、そんなあたしを愛してくれた。





 「どうして・・・・・・どうして今更現れるのよ」
 涙を流しながらそう責める彼女の言葉は正しくて。





 彼のキスを目を閉じて受け入れるのも、きっと正しいのだと思う。
 あんなにも愛し合っていた二人なのだから。







 喉元にひやりとした感触。
 それがあの人の唇だと気づくのに、暫く時間がかかった。

 彼の唇は喉元からだんだん上がってきて、最後にあたしの唇をきつく塞ぐ。



 「・・・・・・・・灰原?」
 何も感じない、何も発さないあたしを不審に思ったのか、
 彼が頬を優しく撫でる。





 「あの人は貴方の藤壺なのね」

 どんなに手を伸ばしても届かない雲の上の人。
 とこしへにあらまほしき人。



 「あたしは貴方の若紫だわ」





 永遠に手が届かない藤壺の代わりに、光源氏の手元に置かれた小さなカナリア。
 どんなに深く誰よりも愛されても、オンリーワンにはなれなかった。






その名は、若紫