TOKYO NIGHTS


第一夜 追憶







 「仕方ない、ここで休むか」
 誰に言うこともなく、快斗は一人声に出していた。
 思ったより弱気になっているのかもしれないと、苦笑して短く息を吐いた。
 目に付いた建物の屋根にそっと腰を下ろす。挫いた左足が僅かに痛んで、思わず顔を顰める。
 とんでもない失態だった。仕事中に気をとられて足を挫くなんて、自分らしくない。
 それでいて探し物は相変わらず見つからないときたら、まさに踏んだり蹴ったりだ。
 あの探偵坊主のせいだと、全ての責任をヤツに取ってもらうことにする。

 ともかくこのままでは暫くは動けない。巣に戻らない限り、人の目があるのでステージ衣装も脱ぐわけにはいかない。
 純白のステージ衣装は夜目には目立ち過ぎるが、この建物は都合よく白いので目立たない。
 何かの研究室だろうか、とてもじゃないが普通の民家には見えない。それはそれで都合が良かった。
 運良く隣の民家も長期の旅行中なのか空き家なのか、人が住んでいる気配がしない。

 どこからか桜の花びらが風に運ばれてやってくる。近くに大きな木でもあるのだろうか。
 四月の夜風はまだ冷たい。風邪を引きそうだが、動けないので仕方ない。
 桜の花びらがさらさらと頬を撫でるのは不快じゃなかった。服についたのも払わないでおいた。
 このまま何もかも忘れて夜の闇に溶け込んでしまいたいと、身体を伸ばして寝転がってみた。
 目を閉じると、確かに融合してしまえそうな感覚に陥る。



 「人様の家の屋根で何やってるの?」
 静寂を破ったのは、凛とした声。
 一瞬天からお迎えでもきちゃったのかと思ったが、現実的な台詞で目が覚めた。
 ここは民家だったのかと身構えたが、声の主はいない。どうやら下から呼んでいるようだ。
 「こんな時間に忍んでくるなんて、あまり歓迎出来ないお客様ね」
 このまま雲隠れしようと気配を消そうとしたが、それは許されないらしい。
 「降りていらっしゃい。弁解くらいなら聞いてあげるから」
 その容赦ない言葉に、快斗はすごすごと足を庇いつつ降りるしかなかったのだ。

 「あら、とんだ大物を釣り上げちゃったわね」
 通された部屋は小さなテーブルランプが点いているのみで、薄暗い。相手の顔が辛うじて見える程度だ。
 仄かな明かりに照らされた輪郭は、明らかに少女と思われるもの。
 透けるように白い肌に、鮮やかな紅い髪。蒼いブラウスの上に着ているのは白衣だろうか。
 純白のステージ衣装を前にしても、少女はさほど驚かなかった。
 むしろ快斗の方が目の前の少女に驚いていた。声の感じや台詞でもっと年上を想像していたので。

 「…こんばんは、お嬢さん」
 快斗はあまりのことに驚いて、声をかけるタイミングを完全に外してしまった。
 いつもなら意識しなくてもぽんぽん出てくる台詞回しが、今日に限って一切出てこない。
 「紳士が淑女の部屋を訪れるにしては、随分な時間だと思うわ」
 「えぇ、全くもってその通りです。ご容赦下さい」
 少女の大人びた言葉遣いに、快斗はただただ平伏するばかりだ。

 「…怪我をしているのね?待っていて、今手当てするから」
 薄暗い中でよく気がつくものだ。必死になって隠していた左足をあっさり見破られる。
 「いや、大丈夫です」と彼女の動作を遮ったが、反対に足を蹴られた。
 じんと響く痛みに思わず声が出る。全く予想外の出来事に、目の奥がツンとなりくらくらした。
 「これのどこが大丈夫なの?」という彼女の言葉に、項垂れる自分が快斗は情けなく感じた。



 「…電気を、点けないのですか」
 デスクの上に置かれていた小さなランプが、今は床に下ろされて快斗の足元を照らしている。
 僅かな明かりを頼りに、少女は器用に薬を塗り、包帯を巻いていく。
 「明るいと、お互いいろいろとまずいでしょう?」
 「えぇ、まあ」
 小学生くらいの女の子に手当てされているという現実をあまり意識しなくて済むと、快斗はこっそり思った。

 「こんなに無茶をして、貴方は何を望んでいるの?」
 「…貴女こそ、泥棒を助けて何をしようとしているんですか?」
 快斗の言葉に、少女が微かに笑ったのが薄暗い中見えた。
 「あら、人の善意を疑っているの?」
 まるで人を試すかのような言い方に、快斗は少しだけムっとする。

 「私は貴女に返せるものなんて何もないですよ?」
 「解ってるわ。泥棒さんから何かを貰おうなんて考えてない」
 「案外お人良しなんですね」
 ますます目の前の少女が解らなくなって、快斗はふと視線を外した。
 「貴方は人から貰うばかりの人生だったのかしら?」
 「…どういう意味ですか?」
 挑戦的な台詞に、もう一度向き直る。色素の薄い瞳が、真っ直ぐこちらを見抜いていた。
 「何か人に与えたことはないの?」

 裏の顔は確かに奪ってばかりだ。
 でも表の顔は―

 「あたしもね、前は人から与えれるばかりの人生だったの」
 「はっ?」
 快斗の答えを聞くまでもなく、少女は語り始めた。
 「でもあたしは一回死んで、再び生かされてからは、人に何かを与えられるようになりたいって思ったの」
 「死んだ」というのは何かの比喩だろうか。訝しむ快斗を無視して、少女は続けた。
 「そういう人生を選ぶ選択権を与えられたのよ」
 まるでそれが誇りであるかのように、少女は嬉しそうに笑った。その笑顔だけは年相応だった。

 「…じゃあ、私も一回死んでみた方が良いんでしょうか?」
 「そうかもね。人生変わるわよ」
 オシマイとばかりに、軽く左足を叩かれる。いつの間にか包帯は綺麗に巻かれて、すっかり左足は固定された。
 「どうもありがとうございました」
 「いいえ、どう致しまして」
 こうやって彼女はずっと人に与えていくのだろう。それを彼女自身が望んだように。

 「このご恩は忘れません」
 「忘れていいわ。ただもし貴方が嬉しいと感じたなら、その気持ちを誰かに返してあげて」
 少女の華奢な両手が快斗の頬を軽く挟んだ。小さくて白い、子供の手だった。
 ふわりとその手が離されたとき、快斗はそっと指先に口づけてみた。
 あまりの冷たさに、もしかしたら目の前の少女は幽霊なんじゃないかとさえ思えた。



 純白のステージ衣装の裾を翻す。驚くことに、左足の痛みは全く感じなかった。
 少女は窓に手をかけて、飛び立つ快斗を見ていた。
 「飛びたくなくなったら、休むといいわ」
 「えぇ、ご忠告ありがとうございます」
 最後に一度だけ振り返って、今度は快斗が少女の白い陶器のような頬に触れてみた。
 指先同様、温度を感じさせない肌だった。

 「さよなら」