十四歳だったあたしにとって、あの部屋は絶対唯一の居場所だった。
半分切れ掛かった蛍光灯、暗くてジメジメしていて、地下室だから日の光さえ射さない場所ではあったけれど。
何もないあたしには、何もないその部屋が寝床であり、還るべき場所だった。







汚れた世界に 悲しさは響いてない
どこかに通り過ぎてく ただそれを待つだけ

 あいのうた - Swallowtail Butterfly -






十四歳だったあたしにとって、世界の中心は組織だった。
「シェリー」と呼ばれ、組織の歯車となって働くことを厭わなかったし、疑問を感じることも無かった。
常識を持ち合わせていたのなら、少しは疑ったのかもしれない。
でもその当時のあたしは、そんな常識すら持ち合わせておらず、ただ研究に明け暮れる日々をおくっていた。



時々研究室を訪れてくる男のことは、最初はあまり好きではなかった。
好きではなかったというか、気味が悪かったのだ。
流れるような金髪に、いつも同じような漆黒の服。自分以上に、排他的な瞳。
この世の何も信じていなくて、それでいてこの世の全てに絶望しているような瞳。
何を考えているのか解らなくて、上からの命令で自分を見張りに来ていることだけは、何となく解った。

見張りに来ているといっても、何も口出しなどしてこない。それが余計に気味悪かった。
とにかく黙ってただこちらを見てるだけ。無口な男だった。
十四歳と三ヶ月で出会ってから十八歳になるまで、週に数回逢っていたのにも関わらず、ほとんど口を聞かなかった。

その数年で知ったことと言えば、コードネームはジンで左利き。愛車はポルシェ。
窓が無いこの部屋で、未成年の少女の前で平気で煙草を吸うような人間であること。しかもかなりのヘビースモーカー。
非常識といえばそれまでだが、あいにく自分も常識など持っていない。お互い様だ。

最初は仕事上の関係だと思っていた。
自分の仕事は研究で、相手の仕事はその自分を見張ること。お互い仕事でしかあり得ない。
意識するようになったのは十五歳になった頃。



十五歳だったあたしは恋なんて知らなくて、だからと言って恋に恋するような歳でもなかった。
自分は既にこの歳で自立していて、守られるような存在―か弱い乙女ではなかった。
男なんて必要なかったし、ましてや愛されたいなんて、誰かを愛すなんて考えられなかった。

「髪形は似ていても、姉とは正反対だな」

無口な男がボソリと一言、漏らした剣。
その剣は、自分が若干十五歳の少女であることを、否が応でも思い出させた。
何故この男が姉を知っている?何故似てもいない姉と姉妹だと解った?

ずっと伸ばしていた髪だって、ただ切るのが面倒だったからだ。
姉のサラサラした長い黒髪が羨ましかったわけではない。
自分の赤茶色の髪は劣性。レッセイ。れっせい。
劣等感の象徴。

「姉とは正反対」
この男にだけはこんなこと、言われたくなかった。
だいたいコイツに何が解る?あたしたち姉妹のこと、何も知らないじゃないか。
そう突っかかろうとしたところに、「長い方が良い」と急に髪に触れられた。
トリートメントもしていないようなキシキシしたあたしの髪を、血管の浮いた青白く細長い手で。
両親と姉以外の人間に、こうやって髪を撫でられたことは初めてだった。
諭すように、あやすように、ただずっと撫でていた。



十六歳だったあたしの髪は腰近くまで伸びていた。
身だしなみにも、前よりは気を遣うようになっていた。
研究が煮詰まると、二人分のコーヒーを淹れて休憩する余裕も出来た。

ジンは相変わらず無口だった。あたしが何か聞いても、ほとんど何もまともに答えが返ってこなかった。
自分を見張っている以外の時間を、どう過ごしているのかと聞いたことがある。
「他の仕事をしている」と短く言った彼の目が、僅かに濁って見えた。
「危ない仕事か」と聞くと、「組織の仕事に危なくない仕事なんてあるのか」と反対に訊ねられた。
その冷たい口調と、斜めに歪められた口のアンバランスさに身震いがして。

キスをした。
ただ唇を重ねるだけの。

ただどこでもいいから触れていたかったのだ。
触れていないと、どこかへ行ってしまいそうだったから。
抱きしめていないと、溶けて失くなってしまいそうだったから。
お互い夢中になって、溶けてしまわぬように体温を確かめ合った。



十七歳だったあたしにとって、世界の中心は彼だった。
絶対唯一の居場所であった地下研究室には、光が射していた。

研究は、正直言って停滞していた。
思ったような成果が上げられないのはもちろん、どこかで自分でブレーキをかけていたのも確か。
研究がある限り、あの人はあたしから離れられない。
彼と自分を繋ぐのは研究だけであって、結果が出てしまえば見張る必要も無くなる。関係解消。

伸ばしていた髪は切った。もう必要ないと思ったから。
大丈夫。あたしには研究がある。これが十七歳のあたしのプライド。
あたしは大丈夫だ。

どんなに身体を重ねても、彼の心は手に入らなかった。
それでも良かった。
逢う度に孤独に陥っても、不安に押しつぶされそうになっても、あたしは自分にこう言い聞かせていた。
あたしは大丈夫。

きっと、彼はあたしからは離れられない。絶対に。



事態が一変したのは、姉の死だった。あたしは十八歳になっていた。
彼の口から直接「自分が殺した」と言われても、信じられなかった。
彼はあたしから決して離れはしない。離れられない。

「餞別だ」と寄越されたのは、姉の漆黒の髪だった。
ずっと憧れていて、妬ましくて、恨んでもいたもの。
純白の紙に一房乱雑に散らされた髪は冷たくて、持ち主の不在を告げた。

そして、あたしは自分から彼から離れる決心をした。
還るべき場所から、巣立っていった。






あたしがずっと信じて自分に言い聞かせていたことは本当だった。
彼はやはり、あたしから離れられなかったのだ。
研究抜きで。

お互い不器用すぎて、一番大切なことに気づけなかっただけ。
人の心は蝶のように捕まえられはしない。
離れられなかったのは、自分の方。

そのことに気づいたのは、ある少年に出逢ってからだった。
そのとき既にあたしは、その少年から離れられないでいた。







そしてあいのうたが 心に響きはじめる

2006.08.15