「行くのね」
「うん」
「じゃあ…」
「じゃあ、元気で」
空の下で
「ヤロー二人で同棲生活なんて、よくやれるわね」
「同棲じゃなくて同居だ」
ダンボールを部屋に運びながら、この家の主である工藤新一は毒づいた。
「だいたい、自分の荷物くらい自分で運べっての」
そのダンボールには“快斗君の荷物”と黒のマジックで大きく書かれている。
「とか言ってちゃんと運んでくれるんだよね、工藤君は」
「お前、ちょっとは働け」
ソファーでごろごろしている快斗に、新一はクッションを思いっきり投げつけた。
「哀ちゃん、コーヒー淹れてー」
快斗はそれをひょいと華麗に避けて、リビングを片付けている哀に声をかけた。
「…自分でやったら?」
“快斗君の荷物”から青いマグカップを取り出して、熱湯を注いだ。
「インスタントで悪いけど」
「サンキュー。何だかんだ言って、哀ちゃんも結局やってくれるよね」
差し出されたマグカップを快斗は笑顔で受け取って、口をつける。
「っていうか、何で灰原が謝るんだよ」
「工藤君って本さえあれば満足出来ちゃう人間だから、もう少し周りのことも考えたら?」
「何だよ、周りのことって」
「シャツと靴下は一緒に洗わないとか」
「はぁ?」
「ここに白馬君がいたらきっと耐えられないでしょうね」
「アイツの名前は出すな」
二人のやり取りを、快斗は笑ったまま見つめていた。
丸一日掛かった引越し作業は、夜には大分落ち着いた。元々快斗の持ってきた荷物は少なかったのだ。
出前の夕飯を三人で食べて、新一は入浴中。快斗と哀はベランダで天体観測中。
「昼も夜も一緒で、バレない自信はあるの?」
「…何か自己嫌悪に陥ってきた」
「騙すことが心苦しい?」
「あー、それもそうだけど」
吐く息が冷たい。指先が少し痺れていくのを、快斗は感じていた。
空が絵の具を混ぜたように濁って見える。明日は雨だろうか。
「何ていうか…わざと擦り寄っていく感じ?」
「お互い、良い進歩じゃない?」
哀の言葉に「そうかな」と快斗は少しだけ笑ってみせた。
「こうやって慣れていくこと、貴方にも私にも必要だと思うけど」
「何に慣れるって?」
「ありふれた日々に」
冷たい風が、頬をそっと撫でる。その風はどこへ行くというのか。
「些細なことで悩んだり、日常の中で小さな幸せを見つけられたり…あたしたちには考えられなかったこと」
「哀ちゃんはアイツの傍にいて、変わったね」
あの風はきっと、遠いところでまた誰かの頬を優しく撫でるのだろう。
「工藤君が嫌い?」
「嫌いだね、あんな自信過剰なヤツ」
思い出すだけで笑えてきて、快斗は肩を震わせて笑いを堪えた。
「自分というものに一切の迷いが無くて、常に自信満々。自分が一番正しいと信じているんだ」
「貴方もそんな彼が眩しく感じられるのね」
「だから近くにいたくなるのよ」と哀は笑った。
解毒剤が完成しても、このままの姿でここに留まることを選んだ彼女。
「そうかもしれない」と快斗は小さく呟いた。
「だんだん、いろいろなことに鈍感になっていくのが解るの」
「進歩の証だね」
「全うな人間の感覚に近づいているのね」
「全う」って何だろう。彼女の言い方に、自分は全うじゃないっていうことなのだろうかと快斗は思った。
「痛みに鈍感になったら、人間終わりだよ」
「そうかもね、それでもあたしはそれを選んだのよ」
ゆるやかに、ゆるやかに。
おだやかに、おだやかに。
まるで変化を楽しむかのように。
事態が急変したのは、引越しから僅か半年後のことだった。
新一は哀しそうな瞳をしていた。
きっとあの自信家は「騙されていたんだ」と絶望したのだろう。
それでいい。ザマアミロと、快斗は笑った。
「オレはお前が嫌いだったんだよ」
「何も、あんなに嫌われ役を演じなくても良かったんじゃないの?」
「工藤はさ、きっと自分を責めると思ったから」
「貴方も大分全うになってきたわね」
窓のサッシに腰掛けて、足を投げ出す。
子供みたいな快斗の仕草に、哀は目を細めて微笑った。
以前は見せなかったその表情に、快斗は軽く嫉妬して紅い髪に手をやった。
「あーあ。哀ちゃんが画鋲持って忠告しにきてくれたときに、さっさと身を引いとけば良かった」
あれからまだ一年も経っていない。あのときに気づくべきだったと、快斗は少し後悔した。
「本当にね、貴方も彼もこんなに傷つかずに済んだのに」
彼女の白い小さな手が、快斗の頬に触れる。あのときの風みたいに、優しくそっと。
「それでも、楽しかったでしょう?」
身を引いたところで、きっともっと後悔していたに違いない。
「笑わないで欲しいんだけど、工藤とは友達になれると思っていたんだ」
純白のステージ衣装に湿っぽさは似合わない。オンステージではいつでも笑っていないと。
「笑わないで欲しいんだけど、君が好きだったんだ」
笑ってみせたが、きっと眉は下がっていただろう。
「どうしても離れなきゃいけないの?」
「小説でも、敵同士は同居なんかしてないだろう?」
「あたしとは?別に敵同士じゃないわ」
「まだこのステージ衣装、脱げないからさ」
縋り付くような彼女の声に、思わずこちらから縋り付きそうになってしまう。
「月並みな言葉だけど、この空の下で君に逢えてよかった」
「黒羽君」
「…何?」
「生きて」
「哀ちゃんも」
冷たい風の中、唇で触れた彼女の体温だけがリアルだった。
ずっと変わりたくないと思っていた。変わっていく心を、どうして繋ぎとめておくことが出来なかったのだろう。
でもこの空はどこまでも続いているから、きっとまたいつか。
いつか再び君に出逢えるだろう。今度はお互い全うな人間として。
その日まで
「さよなら」
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