罪が露見したとき、どうすれば神に許されるのか。












  蘭が出産したらしい。

 非常勤であった彼女は安定期に入ると、何も言わずにさっさと退職した。
 元々一年間の契約だ。産休を取っていた英語教諭とすれ違うように辞めた。
 休職ではなく、完全な退職。
 もうこの学校には用はないとでも言いたそうな程、非常にあっさりとした円満退職だった。

 これで彼女との接点はなくなった。
 電話番号も、携帯も、自宅の住所さえ知らない。当然だ。
 これで逢う機会も、きっかけもなくなった。
 二人を結んでいた糸が、いとも簡単にぷっつりと切れてしまったのだ。

 風の噂で、出産したのは如月の頃だと知った。
 彼女と仲の良かった同僚女性にさりげなく聞いてみると、男の子だったそうな。
 逢瀬を重ねたのは初夏の頃。計算は合う。合ってしまう。

 こんなときになってまで、そんなことを考えてしまう自分がいる。
 だからどうだというのだ。
 夫ともその時期に逢瀬を重ねていたかもしれないというのに。
 だから何になるというのだ。今更。



 「毛利センセイ、出産したんですって?」
 本当に、生徒同士の情報網は侮れない。
 一度、どこがどう繋がっているのか聞いてみたいくらいだ。
 おそらく情報源は、あのお喋りな同僚女性だろうけど。
 「そうらしいね」
 関心などありません、と笑いかける。

 オレはこんなにも気にしていない。
 君は何をそんなに怯えているのだ?

 「まさかとは思うけど、貴方の子じゃないわよね?」
 ゆっくりとそう発音する少女の唇は、ほんのり紅いグロスで縁取られている。
 熟れた果実を思わせるその唇に、吸い付くようにキスをした。

 なんだ。
 君も同じ疑問を感じていたのかい?







 あの日新校舎で出逢った女生徒は、やはり転校生だった。
 名前を小泉紅子といい、高校生には見えない程艶っぽくて大層な美人だ。
 後日自分のクラスに配属されてきて、職員室で顔を合わせたときには流石に驚いた。
 あの日はたまたま見学に来ていたらしい。

 すれ違いざまに言ってきた、「朧月夜に似るものぞなき」の言葉は何だったのだろうか。
 古文教師である自分には、それが源氏物語に出てくるある言葉だとすぐに気づいた。
 ただ、それがどうしたというのだ。彼女は何故、あの場面でその言葉を口にした?
 これが疑問である。もちろん、月などは出ていない真昼間の出来事だったのに。

 「見学しに来た日、新校舎で逢ったよね?」
 担任の職権を生かし、放課後の古文準備室に呼び出す。
 扉の前には「試験問題作成中につき、立ち入り禁止」と札を出し、人払いをしている。
 「えぇ、お逢いしました。丁度この準備室の手前でしたね」
 漆黒の髪が豊かな少女は、口元に笑みを浮かべたまま認めた。
 職員室で顔を合わせたときには、飄々と「初めまして」と挨拶したくせに。

 「あの日、何かを見た?」
 まずは自分と灰原との逢瀬を目撃したか訊ねる。例の謎の言葉は後回しだ。
 「何かとは?」
 質問を楽しんでいるかのように、はたまた全てに気づいているかのように、紅子は笑ったままだ。
 「…僕の他に、誰を見た?」
 質問を変えて挑むが、背中を嫌な汗が流れているのに気づく。
 きっとこの少女は何もかも知っていると、流れる冷たい汗が警告している。
 「うちのクラスの灰原さん」
 この質問を待っていたとばかりに、彼女はあっさりと答えた。白い歯を零して。

 あぁ、何てことだ。
 灰原の姿を見たということは、彼女の言う「何か」をも見たに違いない。

 「…源氏物語が好きなの?」
 思考回路が一瞬止まって、別の質問をすることにする。さっきの答えは保留だ。
 「朧月夜に似るものぞなき」
 あのときのような声音で、彼女は短く言う。
 「そう、それ。すれ違いざまに言ってきたよね?どんな意味があるわけ?」
 「いいえ、大した意味はありません。ただ浮かれていただけです」
 何に対しての否定か、笑みをたたえたまま首を左右に軽く振った。
 「浮かれていた?」
 新しい学校に?まさかそんなキャラじゃないだろう。

 「先生の秘密を知ってしまったから」







 口止め料は、思っていた程あっさりしていた。
 “あっさり”という表現は、教師としては正しくないのかもしれないが。
 「何が欲しい?」という問いに対して、答えた彼女の言い方が余りにもあっさりしていたから。

 「灰原さんにしていたことを、私にもして欲しい」

 その場で「解った」と言い、何も考えずすぐに抱いた。
 一回きりの逢瀬だと思っていたし、彼女も「一度だけでいいから」と言った。

 キスひとつにしとけば良かった。
 このぐらいの女の子なら、大人の男からちょっとキスでもされただけで舞い上がってしまうだろうと。
 「黙っていてくれる?」と言わないでも、きっと恥ずかしくて誰にも喋らないだろうと。
 そう思っていた自分が情けない。
 “このぐらいの女の子”と身体を重ねることを、自分は日常的に行っていたのに。

 一度抱いてしまうと、もう止められなかった。
 彼女は処女だったが妙に慣れていて、されるがままに穏やかに受け入れている。
 灰原と似たような体型だったが、何故か無性に自分を虜にする身体つきだった。
 小振りだか形の良い乳房を軽く噛むと、官能的な声が脳天に響いて背筋が震えた。
 後から思えばただの嬌声だが、何故か今まで味わったことのないような興奮を感じた。
 身体の相性が良いというのはこういうことなんだなと、この年になって思い知った。



 最初の逢瀬から一週間と経たずに、また古文準備室へ呼び出してしまった。
 我慢が出来なかったのだ。もう一度抱きたいと強く思ってしまった。
 彼女は笑っていた。「駄目な子」とでも言いたそうに。

 軽くキスをした。そういえば、この間は前戯も愛撫も何もあったもんじゃなかった。
 柔らかな唇の感触で、もうそれだけで堪らなくやりたいと思ってしまう。
 こっちの思いを気づかれずに、大人の振りをして深く舌を入れる。
 プリーツスカートの中に手を突っ込む。じんわり湿った部分が、誘ってくる。

 どうも彼女には親の決めた婚約者がいるらしい。
 それを嘲笑うかのように、彼女は自分を求めてきた。自分もそれに応える。
 彼女を抱いているときには、全てを忘れられるような気がしたのだ。



 二度目の逢瀬でも、「身体の相性が良い」という感覚は薄れなく、確信した。
 灰原ともそうだが、校内で逢瀬を重ねるということが、スリルと背徳心を尚煽って興奮させた。
 それ以降、古文準備室で灰原と交互に抱いた。

 灰原はもしかしたら違う女の香りに気づいていたかもしれないが、何も言わなかった。
 小泉紅子はもちろんこのことを知っていただろうに、何も言ってこなかった。
 オレはそれがありがたく、二度と手に入らない幻を求めるかのように二人の少女を貪った。







 事が急変したのは、次の年の夏だった。
 あれから半年はそんな不思議な関係が続いていたのだ。

 いつものように古文準備室で逢瀬を楽しんでいたのだが、それを目撃した人物が現れた。
 L字型に曲がった旧校舎の三階の教室から、新校舎の様子を見たという生徒が言いふらしたのだ。
 「三年B組の工藤先生が、古文準備室で女生徒とヤっていた」と。

 確かにカーテンなどの遮蔽物はなかった。外から見られても可笑しくはない。
 教室内に鍵だけ掛けておけば大丈夫だと高を括っていた。
 まさか一般教室のない三階から覗いているやつがいるとは、思いもしなかった。

 それはあっという間に噂となって校内を駆け巡り、すぐさま自分は査問委員会にかけられた。
 見られたのは自分だけで、相手の女生徒は誰だか解らなかったという報告だった。
 相手は小泉紅子だったが、もちろんその場で噂自体を否定した。
 「見られた」と言っても、現場を押さえられたわけではない。
 しかも目撃者は生徒で、信憑性に欠ける。白を切り通せる自信はあった。

 小泉紅子は聡明だった。
 噂が立つや否や自分と連絡を一切絶ち、「関係ありません」と言わんばかりに周りに振舞った。
 灰原の方こそ顔を青くしていて、自分に何とか連絡を取ろうとしていた。



 サラブレッドだった自分の地位や新来は、あっという間に下降した。
 私立の学校が生き残るには、評判が大事。
 たかが噂であっても、ここまで広まってしまうともう後には戻れない。
 結局行為自体は不問となったが、無期の自宅謹慎処分を言い渡された。

 このときになって、自分は職を失うのが怖いと思った。
 この程度の処分で済んで良かったと、本気で思った。





 荷物をまとめて車に運ぶと、教師用の駐車場に灰原が立っていた。
 彼女から接触は度々あったが、こちらが保身の余り無視していた。
 「こんなところまで来てごめんなさい」と彼女は素直に謝った。

 「もう卒業までは逢えないよ」
 もしかしたら学校側は自分からの辞表を待っているだけで、復帰なんて出来ないかもしれない。
 三年生になった彼女たちとは、もうきっと逢えない。
 「だから、ちょっとだけ話をしにきたの」
 彼女には自宅を知らせていない。逢うのはいつも校内だけの関係だ。
 彼女もこれが最後だと知っていて、ここで待ち伏せしていたのだろう。

 「…相手は誰?あたしじゃないわよね?」
 やはり彼女も聡明だ。
 身に覚えがない噂を立てられて、小泉紅子との関係に嫌でも気づかされたのだ。
 「根も葉もない噂だ」
 気づかれたとしても、自分から口にはしない。
 「それで独りで謹慎?」
 「あぁ、余計な軋轢を防ぐためだ」

 「どうして、自宅を教えてくれないの?」
 そんなのは簡単だ。プライベートまで踏み込まれたくなかったからだ。
 なので「卒業したら、うちへおいで」と誤魔化しておく。
 「あたしは学校を辞めてもいいわ。あたしも連れて行ってくれない?」
 どこかへ行ってしまうと踏んだのか、普段の彼女らしくない台詞だ。
 「どこにも行かないよ。暫く自宅で謹慎するだけだ」

 彼女のか細い腕が背中に回される。慌てて周囲を見渡す。
 こんなときまで自分の保身だけを考えてしまって、情けない。
 「どんなに離れても、あたしを忘れない?」
 「あぁ、もちろん」
 自分を破滅に導きこんだ若紫のことは、忘れるものか。
 「いつまで、待っていればいい?」
 「待ってなくていいよ」
 「待っていて欲しい」なんて言えない。そんなことを言う資格は自分にはない。
 「…いいわ。あたしは勝手に待っているから」
 腕がするりと抜ける。こう笑う彼女は、いつもの灰原哀だった。





 誰も居ない独りのマンションで、息を吐く。
 二人の少女には、可哀想なことをしてしまったと思う。
 小泉紅子には「こっちは大丈夫だから心配しなくていい」とメールを打っておいた。
 状況としては全然大丈夫ではないが、彼女もたぶん謹慎のことは知って心を痛めているだろうから。
 彼女からの短いリプライは、「私が貴方を選んだので後悔はしていません」とだけあった。
 やはり賢いと思う。彼女はあくまで自分が選んだのだと言い、選ばれたとは思っていなかった。

 えんになまめきたる人。
 その熱い肌の感触を思い出して、別れを思った。






神に捧げる賢木