「哀ちゃんは本当にママにそっくりね」
何度も言われたこの言葉。
近所のおばちゃんに。保育園の先生に。あるいは酒屋のおじちゃんに。
その度に違和感を感じていた。
確かに自分でも母親にそっくりだとは思う。
でもやはりどこか違う。
それはきっと、自分には父親の血も流れているから。
そんな当たり前のことに気づいたのは、一体いつだっただろう。
物心ついたときからママと二人暮しだった。
休日に遊びに連れて行ってくれるパパはいなかった。
一緒に遊んでくれる兄弟もいなかった。
ママは自分を育てるために、ただひたすら働いていた。
『淋しい』って思ったことはなかった。
そんなこと思っちゃいけなかった。
そんなこと口に出しちゃいけなかった。
ママが哀しい顔をするから。
「パパはどんな人だったの?」
一度だけ聞いてみたことがあった。
その日は保育園の父兄参観日で。
ママはいつものように仕事で来られなくて。
隣の席の女の子がにこにこ笑って父親にひらひら手を振るのを、
その向かいの男の子が「今度の日曜日に父親にネズミーランドへ連れて行ってもらう」なんて自慢している姿を、
見てしまったから。
「パパはお星様になったの?」
隣の席の女の子が教えてくれた。
「哀ちゃんのパパはお星様になっちゃったんだね」
「お星様?」
「死んじゃったらお星様になれるんだよ?哀ちゃんのパパってすごいね」
「パパは死んじゃったの?」
泣きじゃくる自分を、ママは暖かい手で優しく抱きしめてくれた。
「そうじゃないのよ」と小さく呟きながら。
「あたしは幸せだった」
そう言ったママの言葉を信じていた。
その時のママの哀しい笑顔を、あたしは忘れていないから。
だからそれ以来、パパについては何も聞かないことにした。
死んじゃっていても。
生きていても。
あたしたちには関係ない。
ママさえいてくれればそれでいい。
―そう思っていたのに。
線香の香りがツンと鼻につく。
遺影のママは相変わらず綺麗。
あたしの自慢の母親。
『父親はどうしたのかしらねぇ』
近所で囁かれた好奇心に染まった噂話。
誰も自分の居場所なんか作ってくれない。
あたしは今日も独りで眠りにつく。
「君のママに逢いに来たんだ」
ドアを開けた瞬間、すぐに解った。
だってあたしに似ていたから。
違和感の正体を見つけたから。
工藤新一。
ママと自分を捨てた父親。
でも不思議と恨む気持ちは起きなかった。
それはきっと、自分と同じ目をしていたから。
「貴方のこと、パパって呼んでいいのかしら?」
線香の煙が、快晴の空にゆっくりと溶け込んでいく。
真新しい墓の周りには、真新しい白い砂利が敷き詰められている。
納骨の日、あたしは母親譲りの紅い髪をひとつに結って、色とりどりの花束を抱えていた。
どんな花が相応しいかなんて解らないから、ママが好きだった花を持ってきた。
二人で並んで、墓の前で長いこと手を合わせる。
揃えたわけじゃないけれど、同時に目を開けた。
工藤新一は男性用の大きな数珠を手首から外して、小さくため息をついた。
その様子をこっそり横目で眺めていたら、あることに気がついた。
「・・・・・あの」
慣れない呼び方に戸惑って、名前を呼べなかった。
本当は『パパ』なんて呼べなかった。
今更父親が現れるなんて思ってもみなかった。
だからどう接していいか、正直分からない。
「父親とスムーズに会話が出来る!」なんてマニュアルでもあればどんなに良いことか。
「パパだなんて無理して呼ばなくていいから」
「・・・・・・・・・・・っ!!」
見透かされたような気がして、頬が朱に染まる。
それでも瞳は逸らせなかった。
「よく数珠なんか持っていたな」
真っ直ぐ向けたあたしの視線から逃げるように、手首を見てそんなことを言い出した。
「ママの遺品よ」
「・・・・・・知ってる」
彼は黒いスーツの内側に数珠を閉まって、困ったような微笑を見せる。
だってお揃いだものね。
「一緒に買ったの?」
「いや、志保がくれたんだよ。あの時は嫌がらせかと思ったけどな」
―『志保』
あたしが知らないママを、この人はきっとたくさん知っている。
あたしがずっと知りたかったことを、この人なら答えてくれるかもしれない。
そう思ったら何だか眩暈がして、その場に蹲ってしまった。
「哀・・・・・・・・?」
哀、と柔らかく発音する声を上からかけられた。
胸の鼓動が高鳴ったのは、きっと気温が高かったから。
自分はこの男に騙されているのではないだろうか。
自分には父親なんて存在しないのではないだろうか。
これは全部夢ではないのだろうか。
ぽんぽんと軽く頭を撫でられたかと思うと、
彼はおもむろにあたしの横にしゃがみこんだ。
「随分疲れているみたいですね」
隣でネクタイを緩めるその姿には、疲労の色が濃く映ってみえる。
「離婚調停中だから」
その言葉に驚愕する。
「・・・・・・あたしのためですか?」
今の幸せを捨てるほどの価値が、自分にはあるのだろうか。
「いいや、自分のため」
「どうして?おかしいじゃない」
本当は赤の他人なのかもしれないんだよ?
十四年間もほっといた娘に、今更の罪滅ぼし?
「・・・・・・・・じゃぁ、何でママと結婚しなかったの?」
その声は、自分でも驚くほど冷たかった。
「・・・・・・そうだよな」
墨の跡が黒々と残る塔婆を眺めながら、彼は大きく息を吐いた。
「君が聞いたら、きっと全部言い訳にしか聞こえないよ」
「・・・・・・・・・」
大人の事情なんて解らない。
この人がどんな思いで今の奥さんと結婚したかなんて、知りたくもない。
でもその奥さんと別れてまであたしを選ぶというなら、
何で最初からママと結婚しなかったのか。
何でママの最期を一緒に看とってくれなかったのか。
「・・・・・・・志保が、亡くなっていたなんて・・・・知らなかった」
あの日の動揺ぶりを思い出す。
とてもじゃないけれど、演技になんか見えなかった。
「看とってやれなくて・・・・・・・ごめん」
目の前で静かに涙を流す大人を、あたしは胸が詰まる想いで見ていた。
「大事な人が辛い思いをしているから」
「・・・・・・・・・?」
「だから今更だけど、君に逢いにきたんだ」
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・一緒に、暮らさないか?」
真摯な瞳が問うてくる。
「・・・・・・・・・・・おかしいわ」
その瞳から目を逸らせないまま、首を振る。
誰かに縋りたかった。
本当はずっと淋しかった。
独りの夜はもう嫌だった。
「実の娘と暮らしたいと思うことは、そんなにもおかしいことかな?」
深い声と共に、工藤新一は柔らかく笑んだ。
紅い目をしたまま。
瞼をうっすら腫らしたまま。
ねぇ、ママ。
この人がママが全力で愛した人なんだね。
ママも確かに愛されて幸せだったんだね。
工藤哀っていうのも、悪くないかもしれないよ。
小さな黒い靴で砂利を踏む度に、ジャリっと音が鳴る。
太陽に照らされて輝く葉桜が眩しくて、思わず目を細めた。
零れ立ての緑に、「再生」の意味を感じた。
緑の頃あたしたちは、大事な人を失くして
二人で居ることを決意した。
「・・・・・・・・・パパ、行こっか」
大きなごつい手を引いて、ゆっくり一緒に立ち上がる。
これでやっと長い夜が明ける。
どうか、貴方の元にも朝がやって来ますように。
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