貴方は覚えていて。

あの色褪せた約束を。

精一杯の強がりを。

あたしは愛していたの。

知らなかったのね。





“ただ通り過ぎた”

それだけのこと。




















出逢わなければよかったなんてどうして思えたのだろう。






 〜passing through〜





















約束をしたの。
震えを隠して差し出した小指を、
貴方は微笑って絡ませてくれたね。
どうか忘れないで。
最初で最後の指きり。










―貴方はまだ覚えていますか?
雪の降りしきる中、交わしたあの約束を。
震えた指を。
あの雪の白さも。

今あたしの目の前にいる貴方は、
そんなことはもう忘れてしまったのでしょうね。

























「灰原っ・・・・・・」
振り絞ってやっと出た言葉。
「その名前で呼ばないでくれる?工藤君」
「あぁ・・・・・そっか」
彼は頭を掻いて白い歯を除かせて笑った。
「何か・・・慣れなくて、さ」
見慣れた少女から一回り大きくなったあたしを、
彼はまだ受け入れられないみたいだった。





別に受け入れてくれなくてもいい。
でもこの姿もあたしだから。
それだけは分かって欲しい。
「あたしだってまだ慣れないわ」
そう言いながら熱いコーヒーを差し出す。
彼は素直に受け取り、口をつけた。





隣に並んでいる彼をあたしは知らない。
スラリと伸びた背も長い前髪も、
写真でしか見たことなかった。
こんなに深く関わるなんて思ってもみなかった。
ましてや好意を持つなんて。














何だかあっという間で。
何が起こったのか今でもよく分からない。
ただ確かなのはあたしは自由となって、
彼と共に元の姿に戻ったことと、
彼が約束を忘れてしまったこと。





組織を壊滅に追い込んだことも、
解毒剤の完成も、
自分でしたことなのに何ひとつ覚えていない。
今でも時々脳裏に浮かぶ、ジンの顔しか思い出せない。
あの男は逃がしたけれど、
今頃何をしているのだろう。
もうあたしには一生関係のないことだろうけど。
長年苦しめられてきた呪縛から開放されて、
やっと自由になれたのに。
あの約束を今こそ果たせるのに。
あたしは独り、踏み込めないでいた。















「まぁ、お互い無事に元に戻れてよかったな」
「・・・・・これから副作用が出るかもよ?」
「元に戻ったばかりのヤツを脅すなよ」
「本当のことを言っただけよ・・・・それにあたしだって今、元に戻ったばかりだわ」


今日完成したばかりの解毒剤を飲むことに、少し抵抗があった。
立ち止まっていても仕方ない。
自分に言い聞かせて、水と一緒に不安も飲み込んだ。
全ては貴方といる未来のために。
灰原哀より少し成長したあたしを見て、
貴方は目を細めて喜んだっけ。
つい一時間前のことなのに、遠い過去のように思えてしまう。





「それにしても18歳だったとはな」
「前にも言った筈だけど?貴方とお似合いの18歳だって」
「あのときは冗談だと思ったんだよ」
「・・・・・・あたしの方が年上なのね」
「随分年上のような気もするけどな」





貴方は何も切り出さない。
ほら、覚えていない。
苦々しい、薬の副作用。
忘れちゃったんでしょ。
あたしとの約束なんか。
所詮、それくらいの価値しかなかったのよ。










「やっぱり副作用かなぁ・・・何か大切なことを忘れてしまったような気がする」
彼がポツリと漏らした言葉を聞き逃すことはなかった。
笑って流してやれるほど、あたしは大人じゃなかった。
様々な経験をして逆境を乗り越えてきたけれど、
彼よりも年上だけれど、
余裕なんてない。
ここで本当のことを言ってしまったら、
そして彼があの子の方を選んでしまったら。



傷つくのを恐れて逃げたの。
あんな曖昧な約束。
未だに覚えているあたしの方が馬鹿みたい。
だから物分かりのいいふりをしたの。



















「・・・・本当に覚えていないのね」
「・・・・・・・・・・・・・?」
「元に戻ったら笑顔で彼女を迎えに行く」
「・・・・・・・・・・・・・?」
「貴方があたしに約束したことよ」










「・・・・・何でそんな大切なことオメーが覚えていてオレが忘れてんだよ?」
「脳の造りの違いじゃない?」
口元に手を当てて顔をしかめている彼。
耳まで真っ赤にしちゃって。




















あたしさえいなければ、貴方は約束を守れるわ。
だからさよなら。



「行かなくていいの?」
「・・・・・・行く」















「じゃぁ・・・・・・・・・・」
「じゃぁね」
口を開きかけた彼を遮ってさよならする。
背中を押して追い出した。





彼がいなくなってガランとした部屋をただ見つめていた。
貴方のぬくもりを残したままの部屋は、
残酷にあたしの心を侵していく。
貴方が通った道をピンクのスリッパでなぞっていく。
貴方が触れた場所を指でなぞっていく。
どこも貴方の足跡があって、
部屋のあちこちに貴方の存在した証があって、
振り向けばいつもの笑顔があるような気がした。





出逢わなければよかった。
深く関わらなければよかった。
そうしたら、ただ通り過ぎた人。
彼にとっても、あたしにとっても
ただの通過点。


「そんなに待てないかもよ?」
嬉しくて思わず言った強がり。




















ガチャ。
ドアが開く音と共に、外の冷たい風が部屋を通り抜ける。










『元の姿に戻ったら志保を迎えに行くよ』
交わした約束。
触れた指先。


そこにはあの日の貴方がいた。



























passing through...
























出逢わなければ、
ただ通り過ぎただけの人。





いいえ

出逢えたからこそ、
変わらぬ想いをくれた人。

























何てことはない。
蓋を開けてみれば仕掛けは簡単。
つまり、お互い騙し合っていたってこと。















「忘れたかと思った?」




































14869番ゲットの毛利桜依様へ。
遅くなりましたが、新志のアダルティ〜小説「軌跡 〜passing through〜」です。
ってこれのどこがアダルティ〜なんだ?!(ごめんなさい…)
こんなんでも気に入って下さったら光栄です。
それではこれからも『未完成症候群』共々、よろしくお願いします。
キリ番申告ありがとうございました。