「あの人、結婚するんですって」
朝から雨がしとしと降っていて、湿気が多い。典型的な日本の梅雨の日、平日の午後の喫茶店。
優雅なティータイムらしき主婦たちや、一人で勉強中らしき学生、商談中らしきサラリーマンたち。
自分たちはどんな関係に見えるのかと、そんなことを考えながら快斗は「へぇ」と声を漏らした。
きっと自営業の夫婦だろうと結論を出してから
「で、志保さんはどうするの?」
と意地悪く聞いてみた。
ヤツが結婚するなんて知っていたし、彼女がそれについてどう決断したかなんて想像がつく。
彼はそういう人間で、彼女はこういう人間だ。
「どうもしないわ」
コーヒーに口をつけてから外を向いて溜め息のように零した言葉は、諦めというかなげやりな感じだった。
彼女がやる気に満ちている姿なんて見たことないから、それはごく普通な態度だったけれど。
いつものポーカーフェイスに、少しだけ陰が見えた。
「引越しするの。あの人には知らせないけど、貴方には一応知らせておくわ」
綺麗な文字が並んだ紙には、今のマンションから少し離れた住所が書かれていた。
「遊びに行ってもいいの?」
「どうぞ」
「襲いに行っても?」
「既婚者の言う台詞じゃないわよ」
快斗の左手薬指にキラリと光る指輪を横目で睨んでから、志保はまた外へ目をやった。
彼女が工藤と付き合い始めてから、快斗は幼馴染みと結婚した。
一人息子は来月で一歳になる。この間初めて三歩歩いて、青子と共にたいそう喜んだ。
「お互い、年をとったわね…周りは皆ほとんど結婚しちゃったし」
「志保さんは結婚しないの?」
「誰とよ」と彼女は声を上げて笑った。
「あたし、男には頼らないって決めたのよ」
それはきっと強がりなんかじゃなく、本心なのだろう。
その目立つ容姿で男の気を引いても、彼女はヤツ以外の男に靡いたことが無かった。
この自分でさえも、いつも微笑で軽く躱されていた。
独りでも、やりがいのある仕事があるから生きていける。
彼女はそう言って笑ったが、快斗は笑えなかった。
彼女の孤独と絶望を、知ってしまったから。
だから「淋しいときはいつでもこうやって呼んでね?」と言っておいた。
外では相変わらず雨が降っていて。
鬱陶しい気分を吹き飛ばすかのように、彼女は明るい声を出した。
「黒羽君、もうすぐ誕生日よね。今年は何が欲しい?」
それが生前に聞いた彼女の最後の声だった。
ロング・スロー・グッドバイ
新しい住所を聞いても、遊びにはいけなかった。
自分には妻子がいるし、マンションなんか行ったら自分が何をしでかすか解ったもんじゃない。
子供が生まれても、自分はどこかまだ吹っ切れていなかった。
そんな簡単に洗い流せるほど、綺麗な想いじゃなかった。
自分がこんなドロドロした感情を持っていることを、嫌でも思い知らされた。
その年の誕生日、自宅にはクローバーの栽培セットが届けられた。
魚の養殖セットじゃなくて良かったと、本気で思った。(それに自宅はマンションだ)
その後、何度かメールのやり取りはしていたが、直接逢うことはしなかった。
その年の十一月に彼女にしては珍しく無題のメールが届き、一言「出産した」と書かれていた。
そういうことだったんだな、と快斗は独りで納得し、その日は一晩中彼女のために泣いた。
彼女はこういう人間なんだと。
それからはますます逢う気になれなくて、一人息子の成長と共にメールも段々減っていった。
それでも独りで出産して独りで子供を育てている彼女が気になって、
新しいマンションの部屋の電気が消えるまでただ眺めていたりと、プチストーキングなんかしてみたりしていた。
子供は女の子で、成長するにつれて「灰原哀」にとてもよく似ていった。
幼稚園の入園式も卒園式も、小学校の入学式も卒業式も、父親代わりじゃないが彼女に内緒で見に行った。
もしかしたら彼女は気づいていたかもしれないけれど、何も言ってこなかった。
彼女はあの最後に逢った日言った言葉通り、男の力を借りることなく
仕事と子育てを見事に両立させ、一人娘は中学生になった。
陰から見守るだけだったのに。
傘を忘れた少女が誰もいないバス停で独り、雨宿りなんてしていたから。
そっと、傘を差し出してしまったんだ。
そう、例えば娘を迎えにきた父親のように。
「…お名前は?」
突然声をかけてきた中年親父に、胡散臭そうに眉をひそめて薄茶色の瞳を寄越してきた。
うん、よく教育されている。知らない大人と口を聞いちゃいけません。
「宮野…哀」
あ、あれ。訝しげながらも答えちゃったよ。
「いい名前だね」
「そう?哀愁より、ラブとかインディゴの方が良かったわ」
人見知りしない利発さに、こういうところは父親に似ているなぁと漠然と思った。
「そうかな?綺麗な字じゃない?」
文字というよりも、かつての彼女自身の名前である。
少女はそんなことは知る由もなく、母親譲りの紅い髪を指先でいじっていた。
「雨を止ませてあげようか?」
「そんなこと、出来るわけないじゃない」
「まぁ、見ててよ」
片目を瞑り、傘をステッキ代わりにして空に向かって振る。
ワン
ツー
スリー
「これでも一応、マジシャンですから」
「魔法使いみたいね」
初めて見た、とダブルの虹に少女は声を上擦らせる。
よく自分のマジックを魔法みたいと笑っていた彼女の姿と、ダブって見えた。
「…もう、行かなきゃ」
雨宿りは雨が止んだら、もう終わり。
雨を止ませてしまったことを、少しだけ後悔した。
「また逢える?」
「貴女がお望みなら」
約束なんてなかったけど、それはそれは必然的に。
あるときは放課後の土手で
あるときは休日の公園で
他愛も無いお喋りをしたり、マジックを見せたり、勉強を教えたり。
それは普通の父娘より少しだけ普遍で、少しだけ奇妙だった。
ある日、核心に迫られた。
「貴方があたしのパパなの?」
それは覚悟していたことだったけれど、直接言葉として聞くと流石に面食らった。
「…どうしてそう思うの?」
「似てる、から?」
「ボクと君が?」
「そう、違和感の正体が解ったような気がしたから」
そして少女は前から思っていた違和感について語ってくれた。
自分には、母親だけじゃなく父親の血もきちんと流れていること。
だからって父親に逢いたいわけじゃなく、自分たちには関係の無いことだと。
「あたし、望まれて生まれてきた子だったのかな」と呟いた少女に、
「きっとそうだよ」なんて当り障りの無いことしか言えなくて。
確かにあの二人はあんなに愛し合っていたのに。
本当のことを言いたくて。
でもそれは絶対に言ってはいけないこと。
彼女と約束したわけじゃないが、彼女が妊娠したことを隠していたように
自分は目の前の少女にも、ヤツにもこのことは言ってはいけないような気がした。
本当はただ、言葉にしたくなかっただけなのかもしれない。
この少女の父親は自分でもいいじゃないかとさえ思ってしまっていた。
こんなことが永遠に続くなんて、そんなことは最初から思ってなんかいなかったけど。
桜が咲く頃、彼女はひっそりとこの世を去った。
彼女の人生とは何だったのだろうか、と考えた。
孤独だったのだろうか。幸せだったのだろうか。
考えて考えて、一晩中考えていたら朝になっていた。
数年ぶりに彼女からもらったクローバーを眺めてみても、答えは見つからなかった。
あの日のように涙は出なかった。
だったら代わりにヤツに泣いてもらおうと、桜の散る頃余計なお節介を焼くことにした。
「もうそろそろ時効かな」
何に対しての時効だかは解らなかったが、もう解放しようと思った。
久しぶりに会った少女は、髪を少し短く切っていた。
「父親に逢ったわ」
「そう」
「違和感の正体がやっと解った」
「そう」
「貴方に似ていた。だから間違えたのね」
「そう」
「一緒に暮らすことになったの」
「…そう」
「よかったね」とは言えなかった。
彼女の忘れ形見を傍に置いておきたいなんて、そんなことは許されない。願っちゃいけない。
そう、最初から解っていたことじゃないか。
「今日、僕誕生日なんですよ」
「そう」
「抱きしめてもいい?」
「一秒だけなら」
そう笑った少女は間違いなく、あの宮野志保の娘だった。
少女特有の、少し骨ばった小さな身体。
セーラー服越しに、暖かな体温が伝わってくる。
強く抱きしめたら折れてしまいそうなその脆さに、あの日泣けなかった分の想いが込み上げてきた。
「…僕には快青という、君よりひとつ上の息子がいるんだ。仲良くしてくれる?」
「かっこいい?」
「僕に似てかなりいい男」
「じゃあ、あまり期待できないわね」
快斗の腕の中で、少女はくすりと笑った。
その仕草があまりにも志保に似ていて、泣きそうになるのをぎゅっと抱きしめることによって誤魔化した。
「もう一秒経ったよ」
「…そうだね」
もう終わりにしないと。
この少女を陰ながら見守るのも
彼女の亡霊を追いかけるのも、もうこれで終わり。
彼女はもういなくて、少女は本当の父親と暮らす。
ニセモノの身代わりの自分の役目は終わったのだ。
これがきっと、本当に最後のさよなら。
もし自分が死んだら彼女の元へ行けるだろうか。長年夢見た続きが見れるだろうか。
いや、今度こそヤツと幸せを見つけるのだろう。
そして自分を見つけて「貴方、よく天国になんか来れたわね」なんて二人して笑うのだろう。
きっとそうに違いない。
数年後、黒羽快青と工藤哀が出逢うのは、また別のお話。
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