全ての物語は此処から始まる。












 サラブレッド。

 人は彼をこう呼ぶのだろう。
 父親は世界的にも有名な作家、母親は元大女優。
 両親の愛を一身に受けて育った、誰からも羨ましがられる一人息子。
 名門私立という温室でぬくぬく育ち、従順で素直な子供だった。

 ところが彼が高校教師の職を選んだことは、周りには予想外のことだった。
 母校である高校にあっさり腰を下ろした彼を、変わった奴だと言う。
 両親は笑っていた。



 まだ子供だった高校生の彼には怖いものなど、何もなかった。
 自分が望めば何もかも、自分の手に入ると思っていた。
 あんな事件に遭うまでは。
 あの少女と出逢ってしまうまでは。
 最愛の幼馴染みを失うまでは。

 組織を壊滅して、事情を知った彼女が出て行った。
 そしてだいぶ経った後、自分は本来在るべき姿に戻った。
 空虚だけを抱えて。



 その後、彼は妥協というものを知った。
 自分が甘ったれた、ただの無力な子供だということに気づいた。
 忍耐と妥協を知って、彼は大人になった。

 嘘が上手になった。
 何よりも「平和と協調」を願った。
 自分の気持を押し隠して、絵に描いたような立派な大人となった。





 そして今、自分の人生を大きく変えた少女と共に在る。







 「工藤先生、ちょっと」

 ある日の出勤直後、教頭に呼ばれて席を立った。
 「はい?何でしょう」
 笑顔と共に、出来るだけ丁寧な対応。
 この教頭とはどうも反りが合わないが、これも大人のお付き合い。
 これから先ずっと付き合っていく職場を、不快なものにしたくはない。

 応接室に入ると、同年代くらいのうつむいた女性と教頭の姿。
 「英語の境先生が産休の間、非常勤としてお呼びした毛利先生」
 教頭の紹介に隣の女性が立ち上がって顔を上げた。
 「毛利です、初めま…」



 ここで声を上げてはいけない。
 駆け寄って抱き寄せてもいけない。



 「工藤です。どうぞよろしく」
 一瞬で気持ちを切り替えた。
 これも大人になって身に付けた、自分を守る技だった。

 彼女も教頭に気づいて、慌てて深く一礼した。
 「一年の間ですが、よろしくお願いします」
 
 「そういえば毛利先生もここの卒業生だったね、彼もなんだよ」
 「そうなんですか?」
 「学年も一緒なんじゃないか?」
 「私は英文科のクラスでしたので」



 二人のやり取りを黙って聞いていた。
 彼女も大人になったのだろう。
 自分よりはるかに嘘が上手くなって、綺麗になった。
 調べればすぐ解る嘘だが、誰も調べるはずがない。
 こうやって他人のふりをするのが、自分の安泰のためにも賢明だ。



 「あ、毛利先生は人妻だからね」
 嫌らしい目つきの教頭は、念を押すように囁いた。
 私立の学校が生き残るには、評判が大事。
 不祥事は即クビがとぶ。
 自分とあの生徒の関係を知ったら、この男はどんな顔をするのだろうか。

 「知ってますよ」という言葉を飲み込んで
 
 「それは残念だ」







 「新しい英語のセンセイには逢った?」

 生徒の情報網は侮れない。
 ホームルームが終わってすぐ、屋上で彼女は尋ねた。

 「昔のことだ」

 それでも不安そうに口を開きかけた彼女の唇を、自分の唇でふさいだ。
 そのまま舌を入れると、軽く突き飛ばされた。



 「授業が始まるわ、先生」
 「オレは一限目はないんでね」
 「優等生のあたしにサボれって?」

 口ではそんなこと言いながらも目は笑っている。
 そんな彼女に鍵を振ってみせた。
 屋上の鍵はひとつしかない。
 外から閉めてしまえば、誰も入って来れない。



 「制服が汚れるわ」
 彼女はよくこう言って、校内でやることを嫌がった。
 「バレるのが怖い?」
 「あたしは高校辞めたっていいけど」
 「オレが職を失うのが怖い?」

 彼女は小さく頷いた。
 その頬に軽くキスをして、彼女のプリーツスカートの中に手を突っ込んだ。

 「汚れないようにやるよ」





 ●





 校内では冷静さを装っていた。
 彼女の近くにいたら、自分が自分でなくなりそうになるので
 極力職員室にはいないようにした。

 それでも話がしたかった。
 何故待てなかったのか。
 世間話をするように軽く聞いてみたかった。

 その機会はふいに訪れた。
 幼馴染みの関係が同僚となって一ヶ月。

 話があると呼び出された空き教室。
 無用心だと思ったが、離れ校舎なので人が来ることはまずない。
 それに自分は大人だ。
 どんなことを言われても、間違いを犯すつもりはない。





 「新一がここの先生になってるとは思わなかった」
 昔のように自分の名を呼ぶ彼女は、もう昔の彼女ではない。

 「ずっと連絡とってなかったもんな」
 「新一の姿に戻っていたことも知らなかった」
 軽く微笑んだその姿は、昔と何一つ変わらなかったから。
 「まさか自分を捨てた女が、また現れるとは思ってもみなかった」
 つい嫌味を言ってしまう。

 流石にその言葉には顔色を変えて、「捨てたんじゃないわ」と厳しく言い放つ。
 「事情は知っていたんだろう?」
 「コナン君が大人になるのなんて待てなかった」

 待ってて欲しかったなんて、言えなかった。

 「…新一を、待てなかった」
 「ごめんなさい」と、小さく呟いた幼馴染み。



 「どうして・・・・・・どうして今更現れるのよ」
 「そのままそっくりその言葉を返すよ」
 
 初めてのキスは、涙の味がした。







 ここに来ることは誰にも見られなかった。
 普通の生徒は、本校舎から離れた英語準備室なんかに近寄らない。
 静かにドアを開け、気づかれないように静かに閉めた。
 彼女は気づかないのか、振り返らずに背中を向けている。
 内側からカチャリと鍵をかけると、流石に気づいて振り返った。

 生徒へと向けられるはずだった笑顔が、戸惑いの色に変わる。

 「…どうかしましたか?工藤先生」
 努めて冷静に他人のふりをする彼女は、
 この間のキスを警戒してか、内線電話に右手をかけた。

 それには構わずに、つかつかと歩み寄る。

 「人を呼びますよ?」
 「ちょっと質問をしたいだけなんだけど」
 笑って辞書を差し出した。



 何かあるのかと覗き込んだ彼女を抱き寄せた。
 そのまますぐ近くの机に押し倒す。

 「やめて」と彼女が言ったが、そんなものは聞こえない。
 大きな声を出そうにも、唇でそれはふさいでしまっている。



 彼女の顔も
 彼女の下着の色も
 彼女の白い肢体も
 彼女の熱を帯びた部分も
 何もかも見えなかった。

 全ては桜が見せた幻のように映った。



 光る君と日の宮が初めて過ちを犯したあの春の夢を、
 自分はきっと見ているのだ。

 貴女となら、堕ちるところまで堕ちてやる。






かがやく日の宮