「結婚することになった」 
       
      口から吐き出した煙草の煙が、陽炎のように揺れている。 
       
       
       
      「・・・・・・そう」 
       ホテルの一室。 
      ベッドに深く腰掛けながら、薄紅色のシャツを羽織った君は、ただそう頷いた。 
       
      気だるそうに。 
      薄茶色の瞳はこちらを向けずに。 
       
       
       
       
       
      「おめでとう」 
      抑揚のない声で言い、陽炎の向こうで君は微笑った。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      ―桜の花が舞っていた。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      あれから何年の月日が流れただろう。 
       
      少なくとも干支は一周してしまい、 
      来年は結婚十五周年。 
      馴染みのレストランには一年前だというのに既に予約を入れている。 
       
       
       
       
       
      あんなにも愛した日々を。 
      愛された日々を。 
       
      僕は忘れてしまった。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「よう、工藤」 
      古くからの悪友が訪ねてきたのは、桜が散ってしまった頃。 
      葉桜が香る、若葉の頃。 
       
      すっかり中年親父となったしまったヤツは、 
      それでも未だに世界的奇術師として名を馳せている。 
       
       
       
       
       
      「いや、それにしてもまさかお前が蘭さんと結婚するとはな」 
      「・・・・・・今更何だよ」 
      十四年経った今言う言葉ではない。 
       
       
       
       
       
      「お前はいいけどな。自分で責任とったつもりなんだし」 
       
       
       
      手首を切った彼女を見捨てる程、自分は腐ってはいないつもりだった。 
      おっちゃんに泣きつかれて、結婚もした。 
      長年待たせたことに、きちんと責任はとった。 
      子供は出来ないが、彼女を充分幸せにしてやっていると思う。 
       
      それを何故、しかも今になって責められなければならない? 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「オレは今幸せだよ?」 
      蘭を愛し愛されて、満たされている。 
      これ以上の幸せは、もう見つからない。 
       
       
       
      「じゃぁ、そんな幸せをブチ壊してやるよ」 
      乱暴に渡されたのは、丁寧に書かれたどこかの住所。 
       
      この筆跡を、自分はよく覚えていた。 
       
       
       
       
       
      「志保さんに逢って、今の言葉をそっくりそのまま言ってこいよ」 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「宮野」と小さく書かれた手書きの表札に、胸の鼓動が高鳴る。 
      間違いない、彼女の達筆な字。 
      黒羽に渡された紙にも、同じ人が書いたとすぐにでも解る文字が躍っている。 
      忘れたりするもんか。 
      綺麗な文字を書く彼女の手を、指を忘れることなんて出来なかった。 
       
      此処に彼女が居るかと思うと、頭が可笑しくなりそうだ。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      今更逢ってどうする気だ? 
      また昔のような関係を持とうといているのだろうか。 
      自分は彼女を裏切って結婚した身だというのに。 
       
      「・・・・・・この工藤新一が不倫かよ」 
       
       
       
      週刊誌に載ってしまいそうなスキャンダルに、独り自嘲気味に笑う。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「ピンポーン」 
       
      雑念を払って、呼び鈴を一回だけ押す。 
      彼女にもう一度だけ逢いたいという気持ちの方が大きかった。 
       
       
       
      逢って、今すぐ抱きしめたかった。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「はい」 
      彼女の声にしては幼いように聞こえた。 
      小さい返事のあとに、一人の少女が薄く開いたドアから顔を覗かせた。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      其処には、昔出逢った少女が居た。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      白い頬。 
      細くしなやかな肢体。 
      誰よりも鮮やかな紅い髪。 
       
      かつて「灰原哀」と呼ばれた少女。 
       
       
       
       
       
      当時よりは背も高くなっていて、大人っぽくなっていた。 
      中学生、くらいだろうか。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「・・・・・・どなた?」 
      黙って立ち尽くす中年男を見て不審に思ったのか、声がさっきより強張る。 
       
       
       
       
       
      「・・・・・・・・・・・・・・君、名前は?」 
      震える声で尋ねる。 
      嫌な想像が頭を駆け巡る。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「・・・・・宮野、哀」 
       
      はっきりとした澄んだ声で少女は答えた。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「・・・・・・・・・そう、哀ちゃんか」 
       
      まさか彼女が子供を産んでいるとは思わなかった。 
      君は自分の分身に、かつての自分の名前をつけたんだね。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「君のママに逢いに来たんだ」 
       
       
       
       
       
      「・・・・・・・・上がって」 
       
      警戒が解かれたのか、ドアが大きく開いて中に通される。 
      2LDKの小奇麗なマンション。 
      彼女らしく、生活の匂いが全くしなかった。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      そして通されたのは六畳の和室。 
      線香の香りがツンと鼻につく。 
       
       
       
      「今年の春にね」 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      遺影の君は、静かな笑みを浮かべていた。 
      あの頃と同じように、美しいまま時間を止めてしまっていた。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「・・・・・・・・・何・・・・・・・で?」 
       
      目の前で何も言わずに微笑んでいる君に問う。 
       
       
       
      君はどうしてもう動かない? 
      どうしてあの声で自分を呼んでくれない? 
      どうしてあの小さな唇でキスをくれない? 
       
       
       
       
       
      どうしてなんだい? 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「知らなかったの?てっきりお線香あげに来てくれたんだと」 
      少女が狼狽えた声で叫ぶ。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      知らなかった。 
      彼女が結婚して子供を産んでいたことも。 
       
      この世界にもう存在しないことも。 
       
       
       
       
       
      昔から彼女は何も言わなかった。 
       
      オレが結婚した時も、 
      ただ微笑って「おめでとう」と。 
       
       
       
      泣きもせず喚きもせず。 
      ただ微笑んでいた。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「・・・・・・・・・君の、・・・父親は?」 
       
      「宮野」と書かれた表札を思い出す。 
      彼女は離婚したのだろうか。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「・・・・・知らないわ。生まれた時からママと二人きりだったから」 
       
       
       
       
       
      その言葉で全てを理解した。 
       
       
       
      目の前に居る少女の年齢。 
      あの日の君の微笑みの理由。 
       
      そして、悪友の今更の親切。 
       
       
       
       
       
      なんてこった。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      君の墓の前で、線香代わりに煙草を一本立てる。 
       
       
       
       
       
      「・・・・・・・・志保?」 
       
       
       
       
       
      名前を呼べば、すぐにでもあの柔らかい声で応えてくれるような気がした。 
       
       
       
      でもそんな君はもう存在しない。 
       
      どんなに願っても、もうこの腕で抱けない。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      『ママはパパのことは何も言わなかった』 
       
      『・・・・パパのことを恨んでいる?』 
      その言葉には笑って首を振っていた。 
       
       
       
      ママはパパにも何も言わなかったんだよ。 
       
       
       
       
       
      ママはパパのことを確かに愛してくれていたのに。 
      パパは何も言わなかったんだよ。 
       
      言えなかったんだ。 
       
       
       
       
       
      独り残された彼女の分身はどうする? 
      自分はあの少女にも、自分の娘にも何も言わないつもりだろうか。 
       
      言えるわけがない。 
       
       
       
      真実を聞いたら、あの少女は自分を憎むだろうか。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「志保・・・・・・・・・どうするよ?オレ」 
       
      応えてくれる彼女はもう居ない。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      桜の季節に君は逝ってしまった。 
       
       
       
       
       
      そして今、葉桜の季節に君を想うということ。 
       
      それは永遠だと信じていた愛の終わり。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      コツンと鳴った靴音に振り返る。 
       
       
       
       
       
      墓にはおよそ似つかない、色とりどりの花束。 
       
      黒いフレアスカートが、初夏の悪戯な風にはためいている。 
      母親譲りの誰よりも鮮やかな紅い髪を、今日はきちんとひとつに纏めている。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      永遠に続く関係などない。 
      死んでしまった人は、残った人の想い出の中でしか生きられない。 
       
       
       
      それでも人は誰かと出逢わずにはいられない。 
      傷ついて裏切られても、誰かとの繋がりを求めて止まない。 
       
      そして今、新しい関係の始まりが告げられる。 
       
       
       
       
      愛しき人よ さよなら。 
      前に進む自分を、どうか赦してくれ。 
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
      「貴方のこと、パパって呼んでいいのかしら?」  |