罪を隠し通すのは罰なのか。












  妊娠した。

 そりゃ結婚してるんだから、いつかは妊娠すると思っていた。
 この間までは。
 普通にそう思っていたのに。

 生理がとまって二ヶ月。
 喜びも束の間、考えたくもないいある疑問が浮かんだ。

 同年代の妊婦と違って、こんなにも後ろめたい。
 「幸せ」を感じられない。
 母になる自覚も感じられない。
 周りが祝福してくれる度に、天から神の声が聞こえてくるような気がする。

 ―本当に夫との子なのか?



 やめて。
 そんなわけないじゃない。

 ―本当に?



 結婚したのは、子供が欲しかったからだ。
 あの人を待てなくて、それでも好きな人の子供が欲しかったから。
 念願の子供なのに。

 生まれてくる誰の子供か解らないなんて、情けない。



 生まれてくる子供の血液型は?
 自分とあの人はO型。夫はA型。
 子供がO型だとしても、どちらの子か解らない。

 そんなことを考えてしまう自分が恐ろしい。







 彼女が妊娠した。

 産休の先生に代わっての非常勤だった彼女が妊娠したなんて、お粗末な話ではあるが。
 彼女の場合既に結婚していたし、周りは結構祝福モードであった。
 少子化が叫ばれてもう何年経つだろうか。その影響か。
 唯一不機嫌だったのは、採用を決めた教頭ぐらいだった。

 自分はというと、表面上では同僚の妊娠をさも祝福しているように振舞っていた。
 あぁ、なんておめでたい。
 工藤先生は結婚しないの?
 いい人紹介したあげようか?
 そんな同僚の暢気な声を背中に受けながら、ふとひとつの疑問が浮かんだ。

 一度嵌るとなかなか抜け出せない疑問の渦。
 その渦はするりと脇を抜けたかと思うと、また頭の中へ戻ってくる。
 授業中も、徒然草を板書しながらそれだけを悶々と考えていた。

 ―生まれてくる子供は誰の子だ?





 まさかそんな有りえない。
 まさか。
 そんな。

 ―そんなわけないと何故言い切れる?



 「下らないな」
 既婚女性が妊娠した場合、子供の父親が夫じゃない確立は何%だ?
 下らない。馬鹿らしい。

 既婚女性の妊娠なんて、普通のことじゃないか。
 避妊はしてなかったはいえ、たった一度の間違いで。たった一回の逢瀬で。
 
 それでも自分は、子供の父親が自分だと思いたいのだろうか。
 ふと、あの少女の顔を思い出す。

 「…本当に下らないな」







 「妊娠したんだって?」
 問うてくる声は、風の無い水面のように静かだった。
 「…えぇ」

 「…俺の子供?」
 「まさか」

 私は笑う。
 新妻の幸せそうな余裕を持って。



 「本当に?」
 「…あのことは、お互い忘れましょう」
 「彼を愛している?」
 「えぇ、もちろん」

 私は愛する人の子供を生む。それだけだ。



 「近づかないで」
 近づこうとする彼を、低い声で遮る。

 「これから産休を取るわ。もう貴方とは二度と会わない」





 子供が出来たと聞いて、夫は大層喜んだ。
 私は独り、喜べない。

 ただ、恐ろしいだけ。

 これは裏切りだ。
 そして許しがたい罪だ。



 罪が恐ろしいだけじゃない。
 露呈するのがもっと恐ろしい。

 夫は今のところ疑う余地もない。
 周りだって。
 でもあの人は気づいている?



 私は苦労して手に入れた自分の今の地位を、立場を失うのがとても恐ろしいのだ。
 私は一体いつからこんなに醜い女になってしまったのだろう。

 でも、もう戻れない。







 「センセイ、妊娠したんだって?」
 教師同士の話は、あっという間に生徒にも伝染する。

 彼女はあの人のことだけ「先生」の発音が違うような気がする。
 やはり、気にしているのだろうか。
 
 「あぁ、めでたく懐妊だ」
 「ショック?」
 「まさか」

 軽く笑って、細い身体を抱きしめる。
 ここはいつもの屋上。
 たったひとつの鍵を持っている自分以外が入ってくることは有りえない。



 「あたしも子供が欲しい」
 「それって誘ってんの?」

 胸に顔を埋めたまま吐き出されたくぐもった声は、甘い吐息と共に消える。
 細い細い身体は、強く抱きしめると折れてしまいそうだ。
 壊したいのかもしれない。
 彼女を。

 自分をこんな目に遭わせた彼女を。
 自分しかいない彼女を。
 自分は折って、壊してしまいたいのだろうか。

 これは裏切りなのだろうか。
 罪なのだろうか。





 数日後、廊下である女生徒に出逢った。
 いつもなら「おはよう」等の挨拶を交わしてただすれ違うだけだが、今回は違った。

 ここは新校舎の三階。
 ○○準備室などの教師専用の教室が並ぶため、めったに生徒は来ない。
 それをいいことに、先ほどまで古文準備室で灰原と束の間の逢瀬を楽しんでいた。
 なので見られたのではないかと、驚いて立ちすくむ。



 少女は見たことのない顔でしかも違う制服を着ていたので、転校生だろうか。
 灰原とはまた違った雰囲気の、長い黒髪に意志の強そうな瞳が魅力的に映った。
 更に驚いたことに、その少女はすれ違いざまにこう言ってきたのだ。

 「朧月夜に似るものぞなき」






匂いたつ花宴